32話:〝学環を笑わせる〟
「——オーズ師、ちょっといいですか?」
リヨンの授業を観る前に、シェイラは他の学環で授業をしていたオーズをつかまえた。先日リヨンが話していたことを、授業の前にオーズにどうしても伝えたかった。
教導館から出てきたオーズを、シェイラは小走りになりながら追いかける。背の低いシェイラに対して、オーズはすらっと背が高い。どうしても歩幅にちがいが出てきてしまうので、シェイラはいそいそと足を進めた。
「おっと、シェイラ師、すみません」
後ろから呼びかけられたオーズは、シェイラに気がつくと、歩みを止める。追いつくのを認めると歩みを再開したが、オーズはもとの速度よりゆるめてくれた。
その振る舞いに無意識に呼び起こされるものがあった。
浮かんできた金と紅の残影が通り過ぎるのを待つ。
(精進ですよ)
こんなことをいちいち思い出していてはきりがない。
思い出したくない、とシェイラは思う。
もう、三年も前のことだ。
けれど、浮かび上がった感情やできごとは抑圧するものではない。
ガザン師からの教えが頭の奥で聞こえる。
「ただ、ありのままを受け止めるのよ。その感情がともにあることを許すのよ」
あなたの魔導のあり方にはそれが必要、とガザンはそう言った。
「感情というのは抑え込めば抑え込むほど、反動で浮かび上がってくるの。あなた今から好物のお餅のことだけ一切考えるなって言われて、考えるのをやめられる? 逆にね、そればかり考えることになるのよ。これは心ノ理学で証明されているの。だから、いやな記憶もできごとも、それによって生じる感情も、一緒にあることを許すのよ。大丈夫よ。修練を積めば、できるようになる」
精進なさい。
瞑想をつづけなさい。
それがガザンの教えだった。
思い出したくないという思いもまた、シェイラはともにあることを許していいのだ。
そう思うと、体の力がゆるんで、夏めく外気の暑さが戻ってきた。
「どうかしたんですか?」
オーズの声がシェイラに問う。
シェイラは自分のなかで感情が沈殿していくのを見守りながら、オーズを見上げた。
「リヨンさんのことで、少しお話をしておきたいことがありまして」
「喋れない……たしか沈黙症でしたっけ? 改善する方法でもわかったんですか?」
「いえ。そもそも……不安からくる沈黙症は、すぐすぐに解決するものではないので。長い目で見守る必要があると、わたしは考えています」
シェイラが答えると、オーズが肩を落とす気配がした。期待していたのに成果が得られなかった。そんな気配だった。
いささか気まずい空気になりそうにながらも、シェイラは払拭するように明るい声を出す。
「ですが、解決のための糸口、きっかけになりそうなことはありますよ」
「きっかけですか……?」
オーズの目に戻ってくるものがある。シェイラはにこりと笑ってみせた。
「オーズ師と、レーネさんです」
「俺とレーネ? レーネはまあわかりますが。あいつは分け隔てなくいいやつですからね」
レーネという女の子については、先日も聞いていた。
だれとでも仲よくなるような、裏表のない、正義感の強い女の子なのだという。彼女はリヨンの世話を焼こうと思っているのではなく、生活するうえでリヨンには少し手助けが必要そうだから、それを当たり前にやる女の子なのだそうだ。
オーズは、レーネをリヨンのお世話係にさせるつもりは毛頭ないという話だった。
昨年度の担任は、そうさせているふしがあったということだが、オーズは、レーネに強いてはいない。なりすぎないように気を配っているのは、シェイラも感じることができた。
「リヨンさんは、レーネさんともう少し喋れるようになりたいそうですよ」
「へえ、喋りたいのか。そう思えるようになるのは、たしかにいい兆候ですね。あのぬいぐるみで聞き出したんです?」
「……それは人聞きが悪いですね。ちょっと答えやすい方向に持っていっただけですよ?」
「聞き出してるじゃないですか」
シェイラがおどけて言えば、オーズも笑った。
何度か喋るうちに、こんな冗談を言えるような関係を、シェイラはオーズと築いていた。
シェイラは笑うと、もうひとつも大事なことなのではっきりと発する。
「それから、オーズ師の授業は面白いそうですよ」
「え」
びっくりしたのか、オーズの足が止まった。止まって、シェイラの目を見る。真実を言っているのか読もうとしている目に、シェイラは応える。
「先生は面白くて、優しいって言ってましたよ。だから、勉強も楽しいそうです」
シェイラがつづければ、うわあ、とオーズが声をあげた。
あげてから、気持ちを隠すように、鼻の下を指で掻く。
「いや、それは、かなり……うれしいっすね」
「そうですよね」
オーズのうれしそうな顔にシェイラもつられるように、うれしくなった。
「このあとの授業、やる気が出てきました」
「そうでしょうそうでしょう。だから、授業前にお話をしたかったのです」
オーズが、うし、と肩に力を入れるのを見て、シェイラもまた調子に乗ってそんなことを言う。
「今のを聞いて……、リヨンが喋れるようになったらもちろんいいですが、俺は俺の信条らしく、リヨンに接しようと思いました」
「信条ですか?」
「学環を笑わせる。余すことなく。俺が教師をやる理由です」
「……それは、めちゃくちゃ素敵でかっこいいじゃないですか」
そうか、とシェイラは思った。
このオーズが、出会った当初、リヨンに対して喋らないと評していた理由がわかった気がした。
オーズもまた、あぐねいていたのかもしれない。
リヨンが笑わないことに。どうして笑ってくれないのだろう、と苦しんでいたのかもしれない。
学環を笑わせる。
そこに、オーズのどのような想いが込められているのかはわからない。
けれど、オーズの表情から憑き物が落ちたようになるのを認めると、シェイラはリヨンの言葉をオーズに伝えた意味を感じた。
架け橋になれたような気がして、顔がほころぶ。
ふふっと笑いが出て、シェイラはオーズにいたずら仲間のように言った。
「でしたら、オーズ師、絶対にリヨンさんを笑わせましょう。わたし、そういうのならいくらでもお手伝いをしますよ?」
「シェイラ導師の手にかかったら、なんでもできそうな気がしますね。ですが、俺は全力でリヨンを笑かしにいきますよ。面白いと思われてるんなら、こっちの土俵です。徹底的に、やってやります」
シェイラとオーズはにやりと笑って、それから声をあげて笑った。
教師と、相談を聞きに来た導師、という上下関係はなかった。
子どものためになることはなにか。
そういう根をともにする同士の笑いだった。




