29話:笑ってほしい
あれはまずかったな、とシェイラは次の宵闇の日にツェット魔法学園に赴きながら思い返していた。
〈導脈〉が見えないことを知っていたのに、魔導師なんて言葉を不用意に出したのがよくなかった。
三回目の邂逅で、いささかシェイラに対する警戒心を解いてくれたような気がしていたけれど、最後のあの一言で全部台なしになってしまった気がする。もう避けられて会えないかもしれない。
シェイラは、大きな溜息をつく。
完全なお節介だったが、夜な夜な出歩いていそうなイディ少年をどうにも放っておけなくて、シェイラから絡みにいった。このあいだの様子からすると、シェイラのずぼらな発言は少年の傷を抉ってしまったような気がする。
(凹版と、食刻の文様は興味を持ってくれている感じでしたが……)
魔法に関する話題運びは、そこまでは慎重にしていたのだ。
彫り込みを見て関心を惹かれている様子だったから、気がゆるんで魔導師という言葉を出したが、気のゆるみがよくなかったと反省する。
イディの反応を最後まで追えなかった自らが招いたできごとだった。
シェイラはそう思うと、また嘆息が漏れ出た。
「——うし、そしたら、今日はこのあいだのつづきからいくぞ」
教室の扉をくぐると、オーズのそんな声が後ろまで届いた。
明るくからっとした声は、シェイラの鬱屈した気分を振り払ってくれるようだった。講義の内容に注意が向く。
「あー、じゃあ、前回の復習からな。じゃ、問題。生活魔術を体系化しためんどくさがり屋はサージェストの弟子のうち、だれでしょうっ?」
オーズが語尾に力をこめると、はい! といくつも手が挙がった。学環のおよそ八割が挙手している。
リヨンはもちろん人形のように微動だにしなかった。
「オルターヴです!」
当てられたひとりが答えると、
「正解っ。加点十点」
と、オーズが言う。
「じゃあ、オルターヴと仲がよくて、生活魔術の範囲を広げたり技術面に貢献した目立ちたがり屋は?」
「テッペンスー!」
だれかが衝動的に大きな声で答える。
「正解だけど、当てられる前に答えるなっ。減点三点っ」
オーズに言われると、答えた子が「えーっ」とひっくり返った声を出す。
十点だの三点だのなにを言っているのかとシェイラは当初思っていた。
それが授業態度を点数化して溜められるものらしいとわかったのは、子どもたちの机上に置かれているものを見たからだ。試験管のような円筒形の硝子が、木製立てに設えられている。なかで、液体のようなものが浮揚していて、オーズの言葉に合わせて上がったり下がったりしているのを受けて、理解した。
あとからオーズに聞いてみると、この点数を溜めておくと、期末試験で点数が低かった時に落第を防ぐのに役立つらしい。一定の点数を溜めれば、オーズに言うことを聞かせられる権利というものも与えられるとかなんとか。
面白いことをやるなあ、とシェイラは思ったものだ。
授業への参加を促し、子どもたちの動機づけが高まるよい取り組みだと思う。
そんななかでも、リヨンは手を挙げない。発言しない。それだと点数が溜まらず、試験管のなかの液は沈んだままだ。
それが、シェイラは悲しかった。
話せないことはつらいだろう。人がいるなかで、自分の気持ちを言えないのはしんどいだろう。
その状況は、シェイラに——かつての婚約者であるヴィクトルを思い出させた。
生まれながらの王太子。選ばれた聖剣使い。
そういう紙札を貼られてきた彼もまた、自分の気持ちを容易には表明できない立場にあった。表明できず、指先と肩に緊張を溜め込んでいる人だった。
隣で見ているシェイラはそれが悲しかった。
どうにかして、その立場から一時的にでも解放されてほしかった。人の視線を意識せずに、自分の気持ちを言えるようになってほしかった。
体を、楽にしてほしかった。
「わたしの前では、べつにいい人じゃなくていいんですよ?」
そんなことを言った覚えがある。
言った時のヴィクトルの表情はどうだったのか、シェイラはよく覚えていなかった。記憶がよいシェイラだったけれど、小ざっぱりと聞こえてほしくて、ヴィクトルとあえて視線を合わせなかったからだ。
そうしているうちに、いつからか、彼が自分の前ではいろいろ話をしてくれるようになった。張りつめたものをゆるめるようになってくれた時は、嬉しかった。
「ラータもいい人はやめて、敬語をなくしてほしい」
「わたしのこれはくせなので、いい人のつもりはないですし、気もつかってないです」
対等になりたかったのだろうな、と今では思う。
ただ、シェイラはもとから無礼千万なので、王太子という立場をまったく気にしていなかった。ヴィクトルという人間その人とずっと向かい合ってきた。
そう言うと、ヴィクトルは破顔して、きれいな紅の目元をやわらかくしていた。
あんな笑顔を、リヨンも浮かべられるようになってほしい。学環のなかで、笑えるようになってほしい。
シェイラは古傷の哀しみとともに、そう思う。
「——先生! リヨンもテッペンスってわかったって!」
陽の光のような声が大きく聞こえたのは、シェイラが気分を整えている最中だった。
浮かび上がった傷を眺めるようにしていると、リヨンの隣の座席から明るい少女の声があがった。
「お、リヨンもわかったのか?」
オーズに視線を向けられたリヨンは、かすかに身じろぎする。
隣の少女がリヨンに覗き込むようにする。小さく肯くようなリヨンの仕草を、シェイラも横目に見た。
少女が顔をぱっとあげて肯く。
「わかったって!」
「んじゃあ、リヨン一点、レーネも一点なー」
「えー、先生点数低すぎない?」
「当たり前だろ。先に答えが出てるからそうなってんのっ」
「えー、ひどすぎー。先生さいてー」
オーズと、リヨンの隣——レーネという女子がそんなやり取りをして、学環が笑った。どうもいつものやり取りらしい。
科目ごとに教師が異なる中学年だったので、シェイラがオーズの授業を見るのは二度目だった。レーネの存在も認識していたけれど、このように発言しているのをはじめて見た。
設えられた試験管に点数は溜まっていないものかと思っていた。よく見れば、かすかに液がゆらめいているように見える。
このレーネという少女が、もしかしたらリヨンの意志を拾って、今のようにオーズに働きかけているのかもしれない。
(……今年から、学校に行きたくないと言わなくなった)
リヨンの母が言っていたことを思い出す。
なにかそこに、今の状況をよくする鍵のようなものがあるかもしれない。
シェイラは、耳飾りを弾きながらそう考えた。




