2話:霧の大陸
出立は、霧が晴れた日をねらった。
塔ノ都からガルバディアの王都までは、いくつもの駅馬車を乗り継ぎ、おおよそ一ヶ月かかる道のりだった。
シェイラはもちろん、塔に付属する転移魔法陣を用いようとしたところ、なぜか師から怒られた。陣の使用を禁止された。馬車で行けと言う。
「あなたはちょっと生き急いでいるところがあるから、たまにはのんびりゆっくりとしなさい」
無茶苦茶だ。一瞬と一ヶ月にはたいそうな差がある。のんびりゆっくりしろという理由などで片づけられるわけがない。
「師匠、さすがにそれはあんまりです」
「あなたのためよ。鈍行で行けば、見たこと聞いたことがないものを目にすることができます。存分に味わってきなさい」
「師匠……」
「修業と思いなさい。感覚を養い、今を感じなさい。毎日の修業は続けること。それは忘れぬように」
老齢な慧眼は、有無を言わせなかった。
そのようにして、大陸からの〈魔導霧〉が晴れる吉日が、シェイラの門出の日となった。
一ヶ月という距離の移動は、あまりにも久しい経験だった。母が存命で、さらに六歳の頃までの経験だ。その頃のできごとはよく覚えていたけれど、旅がどうだったか、一ヶ月を子ども心にどう感じていたかは、記憶にとどめていなかった。
あれよあれよという間に、ガルバディアの隣にある——聖王国の貴族家に迎えられてしまったから、色んなことを理解し、わかるようになった頃には、陣での移動が当たり前になっていた。一ヶ月の旅なんて、貴い家がするわけなかった。
——まさか、その家から放逐されたのちに、経験するようになるとも思っていなかった。
シェイラは、つきっ、と皮膚が引っ張られるような痛みを感じる。
(感傷がすぎますよ……)
己の魔導を確立させる前——魔法が使えなかったかつてのことが、不意によみがえる。
修業と思えと言ったガザンの言葉を思い起こして、その痛みが引いていくのをぼうっと眺めるようにすると、痛みは次第に引いていった。
「——着きました、こちらです」
一ヶ月の旅路は思ったよりあっという間だった。
シェイラはそうして、ガルバディア王国の首都魔法学園に足を踏み入れた。
石壁の門がぐるりとあった。その奥に茶色く苔むした石煉瓦でできた、城館のような建物がある。左奥には煉瓦でできた四階建ての建築、右奥には比較的新しそうな石煉瓦で造られた三階建てだった。表に向いている車輪窓が色硝子を美しく輝かせている。ところどころに塔が聳立し、尖塔が陽光を反射していた。
案内役は大学府の助手で、石壁の校門で礼を告げる。
呼び鈴を鳴らせば、事務職員と思しき人物が出てきて、城館と思った教導館——教師たちの執務を行う建物に案内をされた。
いよいよ、シェイラの初仕事だ。
職員に案内されて、学園長室に通されると、シェイラはガザン師のようにかっこよく姿勢を伸ばして、それから腰を折った。
「はじめまして、ヴェッセンダリアから参りましたシェイラータと申します」
「おお、智の国からよくぞお越しくださいました……! シェイラータ導師」
恰幅の良い茶色い髭をたくわえた男だった。丸い眼鏡で頭はぼさぼさだが、圧迫感のない背丈もあって、なんとなく話しやすい感じを受ける。
知らず緊張を覚えていたシェイラは、ふっと肩から力が抜けるのがわかった。
「どうぞ、シェイラと気兼ねなくお呼びください。導師もけっこうです。似つかわしくないので」
「では、シェイラ師と。早速ご案内いたしましょう」
学園長は鷹揚に言うと、立ち上がってシェイラを先導した。
荷物を置いてから案内されたのは、教導館から南にある初等部の学舎だった。
なぜ学舎に案内されるのだろう。
疑問が浮かぶ。師から聞いている仕事は、教師の相談役だ。忙しいから学舎で話すのだろうか。
初等部ということは、四歳から七歳——数えでは、五歳から八歳までが過ごす場所だ。
シェイラは、魔法や魔術の次に、子どもが好きだった。
ガザン師の修業で孤児院の子どもたちの居処で過ごしたことがある。大変だったが、楽しい日々だった。
子どもたちのいる学び舎に足を踏み入れる瞬間、今一度の緊張と、期待で、胸が膨れる。
古い煉瓦でできた学舎だった。廊下に子どもたちの高い声が木霊している。煉瓦のしっけたにおいがしたけれど、不思議に心地よく子どもたちの声を響かせているようだった。
シェイラの長靴の音と、学園長の革靴の音が、こつんこつんっと鳴り響く。
扉から覗ける各部屋には、方立と狭間飾りが放射線状にのびた丸い窓があって、子どもたちが楽しそうに授業を受けている姿が目に入った。
一階から二階、三階に上がると、廊下は外に開けていた。高い位置から首都魔法学園の姿が一望できる。気持ちのよい春風が抜けていって、冬の終わりをよろこぶ花々の香りがするようであった。
学園長に案内されて、一室通り過ぎる。
ちらっと垣間見えた室内の様子に、不審を覚えて足を止める。
「ああ、そこは……」
学園長が、ぼさぼさの髪の生え際を指でかいていた。汗をかくしているような仕草だった。
「もしかして……学環崩壊してます?」
思わず、シェイラは訊いていた。




