187話:学環の空気
シェイラは、午後、ヤルチェの学環に足を踏み入れていた。扉をくぐってすぐに、違和感を覚えた。
全体の空気に、渦巻く澱みを感じた。壁から壁にぴんと糸が巡っていて、指を動かすだけでふれてしまうような、緊張感があった。
ウショー師の授業だ。週に一回、学環指導の日を、音楽劇の練習に当てている。壇上で歌ったり踊ったりしているものと、控えているものに分かれていた。
(なんでしょう)
シェイラは、すうっと離れるようにして観る。
子どもたちの顔色をうかがう。視線。仕草。どこに集まっているのか。
そうして束ねられていた先は、壇上だった。べつにおかしなことはない。今はまさに、主役の舞姫役が踊っている最中だった。背後には、ヤルチェもいる。
壇上に目がいくのはなんらおかしいことはないはずなのに、子どもたちの目が、不安をたたえているのはなぜだろうか。
「……今日は大丈夫だといいね」
こそっと話す声を、シェイラは拾った。
「うん。つづいたのは、たまたまだと思うけど……」
ふたりの女子生徒が、そんな話をしている。
シェイラは、近づくと、後ろからそっと声をかけた。
「──なにが大丈夫なんですか?」
ふたりの女子生徒は、目を見開いてシェイラを振り返る。
「気になっちゃいまして。みんな、そわそわしているようですから」
シェイラは、へらりと笑う。
ウショー師には内緒なので教えてください、という甘い言葉は言わなかった。言えば、教えてくれる子どもたちもいるが、内容によっては、師に共有しなければいけない。
子どもたちの警戒心をとくように、いかにも野次馬っぽく尋ねた。
そうすると、ふたりは途端に表情をやわらげる。話したかったと言わんばかりに小声で返された。
「最近、学環で怪我がつづいてるんですよ」
「怪我ですか?」
「そうですそうです」
ふたりは興奮するように言う。
「先週なんですけど、一番運動神経のいい子が、足を挫いて怪我をしたんです。絶対に怪我をしないような子なのに、しばらく練習に出られなくなっちゃって……」
「そうなんです。先週は、またべつの子。その子は、教室移動中に屋根から足を踏み外して……」
「危うく、大事故になりそうだったんですが、見張っていた規範教導師に助けてもらって大きな怪我はなかったんですけど……」
「その子が言うには、屋根を{跳躍}した時に、足を引っ張られたって言うんですよ」
「そうそう。真っ黒な手に」
「そんなだから、みんなこわくて外での移動をためらっちゃって、授業には遅刻ぎりぎりですよ」
ねー、とふたりは顔を見合わせながら言う。
シェイラは、呪術だ、と直感する。
思考が目まぐるしく動くのがわかった。
「……その子たちが怪我をする前に、なにかありませんでしたか?」
「なにか、ですか?」
「その子たちがなにかよくないことをした、とか」
だれかに恨まれるようなことをしたか。
「えー、ないですよないですよ!」
「だって、ふたりともいい子たちですもん! 学年の班長みたいで、みんなを引っ張りながらも、いけないことはいけないって言うような、しっかりしてる子たちなんです」
「そうですそうです!」
「あ、でも……」
ひとりが、思い至ったようにつぶやく。
「このあいだの、あれはちょっとやりすぎだったよね」
「このあいだのあれ?」
シェイラは首をかしげる。
「あの子……わかります? ちょっと、その……あんまり踊りが上手じゃない子」
その娘がひそかに示したのは、壇上にいるヤルチェだった。
シェイラのなかで、ひやりとするものがあった。
「……はい」
「ちょっと前に、あの子、怪我したふたりと何人かに囲まれて、なんていうか、注意を受けたんですよね」
「注意?」
「今真ん中で踊ってるペニーって子に、ついて回ってたんですよ。ついて回るなって注意したんです」
「あれはちょっとやりすぎだったよね」
ねー、とふたりはまた、顔を見合わせる。
「いじめっぽかった」
「うんうん」
ふたりは、肯き合う。
「ヤルチェは、悪い子じゃないのにね。ちょっと、変わってるけど」
「一方的に喋るところとかね」
「わたしたちは、学園時代から一緒だから、そうじゃないってわかるけど、学院から一緒になった子はわかんないのかも」
「ヤルチェもうまくないしね」
「あるとしたら、それくらいかなー」
ふたりは、そう言う。
「そのヤルチェさんが……なにかした、とかは?」
シェイラは、それ以上ふたりがつづけない内容を突いた。
「えーないない!」
「絶対ないよ! ヤルチェ、いい子だもん」
「うん、見えづらいけど」
「たぶん、そういう度胸もないし」
「そういうことするんだとしたら、きっとよっぽどなんかあった時だよ!」
思いっきり否定されるので、シェイラは瞠目した。それから、やわらかく目笑する。
「そうですか」
「うん。もし、ヤルチェが疑われるなら、そんなことないって言いますよ!」
「そうそう」
「……よかったです」
ヤルチェを理解してくれている子が、少なくともここにふたりいるのだとわかると、暑いはずのフィシェーユの南風を心地よく感じた。




