173話:ヤルチェ(2)
「今日はここまでにしよう」
父の大きな手が、ヤルチェの頭にぽんと乗る。
そうすると、集中が切れた。円盤は、まだ完成していない。けれど、いいものができあがる確信がある。
「できあがりが楽しみだな」
「うん、父さん」
「夕餉にしよう」
ヤルチェの家は、父とヤルチェだけ。母は随分と前に、蟲の犠牲になってもういない。
それでも、ヤルチェは、この生活がたまらなく好きだった。父と同じ、自鳴琴職人になるのが、ヤルチェの夢だった。
そのためにも、学院をきちんと卒業したい。少なくとも三年生までは在学して、最低限必要な知識は得ておきたい。
(来週こそは……)
花の祭典の練習で、少しはましな動きができるようになりたい。母のような踊りの才はないけれど、せめて悪目立ちしない程度には、体を動かせるようになりたかった。
──そう、思っていた。
「ヤルチェ! そこはちがうだろう!」
どきっとした。ウショー師の声が、心ノ臓を、槌で直接叩いたように聞こえる。
「何回言えばわかるんだ!」
「……ごめんなさい」
滲み出るように謝罪の言葉を出した。
「やる気がないのか! やる気がないなら、向こうに行って見学してろ! きちんと技を盗め!」
「すみません」
唇に乗る音は、淡々と聞こえる。自分の悪い癖だった。
泣きたくてたまらないのに涙が浮かんでこない。冷たい、石床を見つめながら、樫の壇上を下りる。段床に腰かけて、見上げるようにつづきの場面を見た。
心がさいなまれるように、じくじくと痛くてたまらなかった。けれど、ヤルチェは表情に出ない。声も平板で、感情が読み取りづらいのだという。
(こんなに苦しくてたまらないのに……)
ヤルチェの苦しみは、だれにもわかってもらえない。
ヤルチェは、小さな頃から不器用だった。
〈向日葵の妖精〉と呼ばれた母の娘であったけれど、舞踊魔術も、踊りそのものも、才能がなかった。音に合わせて体を動かす、というのが苦手だった。なぜだか、どうしても一拍か二泊、遅れてしまう。そういう焦りから、細部への意識がなくなって、踊り自体の精彩も欠いてしまう。
学園時代、枯れた向日葵、と何度なじられたことだろう。
フィシェーユでは、皆、なにかしらの芸術魔術の才を持つものが多いなかで、ヤルチェは大きな才を持っていなかった。歌・絵・舞は、フィシェーユを治める三王の、三大芸術とされていたけれど、ヤルチェはこれっぽちの才能もなかった。
陽の当たらない、枯れた向日葵。
父や工房の職人たちは、ヤルチェの自鳴琴作りの才能を見い出してくれていたが、学園や学院では、その才能を活かすことができなかった。
祭典の予選に参加することになった去年はよかった。全員出なくてもいいと担任から言われていたから、ヤルチェは裏方に徹することができた。
だが、今年度担任のウショー師の方針はちがう。
「私は、全員壇上参加というのを大事にしてる。ここにいる皆に、舞台のうえで脚光を浴びてもらいたいと思っている」
その話を聞いた時、ヤルチェは喉に膠が塗りたくられたような気がした。
「大事なのは、努力だ。それから、やる気。それがあれば、たとえ苦手なものであっても乗り越えられる。私はそう、信じている」
信じている、という声が耳のなかで反響する。
あたしは、その信頼に答えられる気がしない。
膠の張りついた喉の奥で、ヤルチェの心は初日から悲鳴をあげそうだった。
(努力……やる気……)
それで、ほんとうにできるようになるのだろうか。
劇の練習がつづく。はたから見たら、ヤルチェはぼうっとなにも考えていないかのように見えるらしい。思われたとしても、なにかを盗もう盗もうと懸命に視線で追う。
そうすると、ヤルチェの目には、やはりペニーの姿が目に止まった。
(いつも上手だな……)
ペニー・レイン。学院に上がってから、一緒になった。
薄紅の木春菊のような子だった。
肩までの桃色のゆるやかな髪に、たまご色の瞳。肩幅も細くて、低身長すぎないから、華やかさが際立つ。
まるで、舞台の中央に立つために生まれてきたような子だった。
(すごいなあ)
今回の主役は彼女だった。
──『エレ川の舞姫』。
歌劇と舞踊劇の混合音楽劇。
それが、ヤルチェの学環の演目であった。
ペニーは、美しい舞姫役。川に住まい、男を惑わして生気を喰らうが、その己の性を哀しむ妖精。
ある時、妖精舞姫は、ひとりの男を心から愛するようになる。男とともに暮らすことを夢見るけれど、己の性から叶わず、自害する。だが、男もまた妖精舞姫を愛していた。エレ川の河辺で、死んだ舞姫を憂え、死者の行き着く、〈霧の峡谷〉での再会を願って、男もまた自害をする。
彼女の繊細な挙措や舞の一挙手一投足は、妖精舞姫の哀れな生を表現する。
(母さんも、舞姫役で名を馳せてた)
母は、舞踊劇の舞手だった。向日葵と形容されるほど明るい華やかさがあったようだけど、悲恋のこういった物語も得意としていたという。
ヤルチェは、ただの妖精仲間。ペニーの美しさを際立たせる端役。出番があるようでないもの。
べつに、それでもヤルチェはかまわなかった。母と同じように、ペニーと同じようになることも、望んでいない。
(でも……)
舞台を台なしにはしたくない。
なら、ヤルチェは精いっぱい技を盗んで、不器用な自分をなんとかしなければいけなかった。




