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魔法が使えない魔導師と、霧の大陸の教え子たち【第一部完結】  作者: 稿 累華
第9章:ついてくる少女─前編─

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172話:ヤルチェ(1)

 ヤルチェは授業を終えると、すぐに石段をくだった。


 学院の回廊の下には、古代帝国時代の水道橋の名残りがある。その石橋の半円迫持(アーチ)をくぐって、篠懸(プラタナス)の遊歩道を進むと、裏門から旧市街に出る。

 ひびの入った敷石の旧市街は、新市街に住む人々からすると、古臭く黴の生えた伝統を、後生大事に抱え込んでいるように見えるらしいが、ヤルチェは、旧市街の街並みが好きだった。


 新市街の時計塔の音に隠れて、中央広場で夕方の組み鐘(カリヨン)が鳴る。この少しだけくぐもった音を聞くと、ほっと息をつきたくなった。


「──ただいま、父さん」


 昔ながらの吊り看板。時計と鐘、そして自鳴琴(オルゴール)の意匠。銅が酸化した緑青は、自分がこの伝統を守る街に住んでいることの誇りを感じさせる。


 扉をくぐってすぐ、父からの返事はなかった。

 奥から、金属を削る音が聞こえる。父だけでなく、他の職人仲間、弟子たちが、まだ作業を行っているのだろう。職人というのは、鐘の音ですぐに手を止められない生きものなのだ。


「おかえり、ヤルチェちゃん」

「ただいま、カーサおばさん」


 店台を守ってくれていたのは、職人仲間のひとりを夫に持つカーサという女だった。五人の子を育てている母親だ。肝っ玉が据わっているので、店番をしてくれるのはありがたい。

 ヤルチェが学院に通っている時間、このカーサが店を守ってくれる。ヤルチェが帰ってくると、入れ替わるようにして、カーサは家路につく。


「今日はまた随分と遅かったじゃないか」

「ごめんなさい、ちょっと学校で居残りがあって……」

「居残り? なんでまた?」


 ヤルチェは成績優秀者じゃないか、とカーサは帰り支度をしながら尋ねる。


「……花の祭典の練習だよ」


 溜息と一緒に今日担任から怒られたことが思い出されて、そのまま吐き出してしまいそうになった。

 相手がだれだったか思い出して、こらえる。なんとか苦笑いらしきものを浮かべた。


「もう、こんな時期からかい? でもまあ、そうねえ。婦人会でも練習ははじまっているから、そうかもしれないわねえ」


「すごい先生がやって来て、しごかれているから大変だよ」


 本音だった。ヤルチェは、つい、ぽろっと漏らす。


「そうねえ。しごかれると大変よね。でもまあ、そうやってしごいてもらったことが、あとから、ためになったなあって思うことがあるわよ。むかつくって思いながらやることで、出てくる力もあるわあ。青春っていいわねえ」


「…………」


「それに、ヤルチェちゃんなら大丈夫よ。だって、〈向日葵(ヒマワリ)の妖精〉の娘なんだから。自信を持てば大丈夫よ」


「……うん」


「がんばって。応援してるわ」


 じゃあ、また週明けにね、そう言ってカーサは帰っていった。

 裏の工房の音が、しーんとした店のなかに、やけに静かに響いて聞こえる。


「……〈向日葵の妖精〉は幻なんだよ」


 小さく、ヤルチェはつぶやく。

 同じ髪の色を持っていても、つややかで真っ直ぐな髪質だった母と、爆発するヤルチェの髪質はまったくちがう。


「あたしも、踊れたらよかったのに……」


 せめて、踊ることができたら、こんな気持ちにはならなかった。

 自分のなかに、エレ川の澱みが残留するようであった。



「──ヤルチェ、帰ったのか」



 前かけで手を拭いた父が、のっそりと工房から現れた。ヤルチェは、壁に長外套(ローブ)をひっかけている最中だった。

 ヤルチェの髪質は、父の綿毛みたいな頭から受け継がれていた。いつか、父の頭には、小鳥がたまごでも産みつけそうだと思っている。


「ただいま、父さん」

「少し手が空くから、いつものやつ、やるか?」


「……うん!」


 ぱあっと、向日葵の開花を見たように、気持ちが明るくなった。


 ヤルチェは急いで、自分の前かけを壁から引ったくる。そうやって身につけると、工房の、職人たちが作業をしている隅のほうに向かった。ヤルチェの特等席。作業空間。隅っこは埃っぽくて、飛び散った鉄粉が溜まってくさかったけれど、どこかほっとする。


「ほら、やるぞ」


 父が隣にやって来た。


 自鳴琴──内部の作りかけの円筒(シリンダー)。そして、もうひとつは円盤(ディスク)だ。ヤルチェが考案したものだった。

 父は、繊鑷(ピンセット)を持って、円筒(シリンダー)に針を打つ。自鳴琴の要。繊細な指と耳は、美しい音を奏でる、特別な魔法を作り上げる。


 ──自鳴琴の魔法。フィシェーユの魔法のなかでも、楽器魔術の流れを組むささやかで古い魔法だ。父の指先から〈導脈〉の魔力が流れ込んで、針と円筒は魔法の音を紡ぐ道具となる。


「今日は、どんな魔法を込めてるの?」


「懐かしい思い出を思い出す魔法だ」


 それは、父らしい自鳴琴の魔法だ。


「じゃあ、あたしも同じのを描いてみる」


 今度はヤルチェの番。

 円盤を手に取る。あらかじめ描いておいた自鳴琴(オルゴール)()を参考に、穴を空ける。神経を使う作業だ。


 父が針と円筒に魔法を流し込むように、ヤルチェは真鍮盤と穴に魔法を込める。〈導脈〉から細長い魔力の流れが乗って、ヤルチェの指先から打ち抜き用の工具に魔力がこもる。

 少しずつ、少しずつ、穴を空ける。この音を聞いた人が懐かしい気持ちになるように、魔法を込める。


 気づけば、時間が経っていて、工房にはもう、父とヤルチェしか残っていなかった。


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