172話:ヤルチェ(1)
ヤルチェは授業を終えると、すぐに石段をくだった。
学院の回廊の下には、古代帝国時代の水道橋の名残りがある。その石橋の半円迫持をくぐって、篠懸の遊歩道を進むと、裏門から旧市街に出る。
ひびの入った敷石の旧市街は、新市街に住む人々からすると、古臭く黴の生えた伝統を、後生大事に抱え込んでいるように見えるらしいが、ヤルチェは、旧市街の街並みが好きだった。
新市街の時計塔の音に隠れて、中央広場で夕方の組み鐘が鳴る。この少しだけくぐもった音を聞くと、ほっと息をつきたくなった。
「──ただいま、父さん」
昔ながらの吊り看板。時計と鐘、そして自鳴琴の意匠。銅が酸化した緑青は、自分がこの伝統を守る街に住んでいることの誇りを感じさせる。
扉をくぐってすぐ、父からの返事はなかった。
奥から、金属を削る音が聞こえる。父だけでなく、他の職人仲間、弟子たちが、まだ作業を行っているのだろう。職人というのは、鐘の音ですぐに手を止められない生きものなのだ。
「おかえり、ヤルチェちゃん」
「ただいま、カーサおばさん」
店台を守ってくれていたのは、職人仲間のひとりを夫に持つカーサという女だった。五人の子を育てている母親だ。肝っ玉が据わっているので、店番をしてくれるのはありがたい。
ヤルチェが学院に通っている時間、このカーサが店を守ってくれる。ヤルチェが帰ってくると、入れ替わるようにして、カーサは家路につく。
「今日はまた随分と遅かったじゃないか」
「ごめんなさい、ちょっと学校で居残りがあって……」
「居残り? なんでまた?」
ヤルチェは成績優秀者じゃないか、とカーサは帰り支度をしながら尋ねる。
「……花の祭典の練習だよ」
溜息と一緒に今日担任から怒られたことが思い出されて、そのまま吐き出してしまいそうになった。
相手がだれだったか思い出して、こらえる。なんとか苦笑いらしきものを浮かべた。
「もう、こんな時期からかい? でもまあ、そうねえ。婦人会でも練習ははじまっているから、そうかもしれないわねえ」
「すごい先生がやって来て、しごかれているから大変だよ」
本音だった。ヤルチェは、つい、ぽろっと漏らす。
「そうねえ。しごかれると大変よね。でもまあ、そうやってしごいてもらったことが、あとから、ためになったなあって思うことがあるわよ。むかつくって思いながらやることで、出てくる力もあるわあ。青春っていいわねえ」
「…………」
「それに、ヤルチェちゃんなら大丈夫よ。だって、〈向日葵の妖精〉の娘なんだから。自信を持てば大丈夫よ」
「……うん」
「がんばって。応援してるわ」
じゃあ、また週明けにね、そう言ってカーサは帰っていった。
裏の工房の音が、しーんとした店のなかに、やけに静かに響いて聞こえる。
「……〈向日葵の妖精〉は幻なんだよ」
小さく、ヤルチェはつぶやく。
同じ髪の色を持っていても、つややかで真っ直ぐな髪質だった母と、爆発するヤルチェの髪質はまったくちがう。
「あたしも、踊れたらよかったのに……」
せめて、踊ることができたら、こんな気持ちにはならなかった。
自分のなかに、エレ川の澱みが残留するようであった。
「──ヤルチェ、帰ったのか」
前かけで手を拭いた父が、のっそりと工房から現れた。ヤルチェは、壁に長外套をひっかけている最中だった。
ヤルチェの髪質は、父の綿毛みたいな頭から受け継がれていた。いつか、父の頭には、小鳥がたまごでも産みつけそうだと思っている。
「ただいま、父さん」
「少し手が空くから、いつものやつ、やるか?」
「……うん!」
ぱあっと、向日葵の開花を見たように、気持ちが明るくなった。
ヤルチェは急いで、自分の前かけを壁から引ったくる。そうやって身につけると、工房の、職人たちが作業をしている隅のほうに向かった。ヤルチェの特等席。作業空間。隅っこは埃っぽくて、飛び散った鉄粉が溜まってくさかったけれど、どこかほっとする。
「ほら、やるぞ」
父が隣にやって来た。
自鳴琴──内部の作りかけの円筒。そして、もうひとつは円盤だ。ヤルチェが考案したものだった。
父は、繊鑷を持って、円筒に針を打つ。自鳴琴の要。繊細な指と耳は、美しい音を奏でる、特別な魔法を作り上げる。
──自鳴琴の魔法。フィシェーユの魔法のなかでも、楽器魔術の流れを組むささやかで古い魔法だ。父の指先から〈導脈〉の魔力が流れ込んで、針と円筒は魔法の音を紡ぐ道具となる。
「今日は、どんな魔法を込めてるの?」
「懐かしい思い出を思い出す魔法だ」
それは、父らしい自鳴琴の魔法だ。
「じゃあ、あたしも同じのを描いてみる」
今度はヤルチェの番。
円盤を手に取る。あらかじめ描いておいた自鳴琴譜を参考に、穴を空ける。神経を使う作業だ。
父が針と円筒に魔法を流し込むように、ヤルチェは真鍮盤と穴に魔法を込める。〈導脈〉から細長い魔力の流れが乗って、ヤルチェの指先から打ち抜き用の工具に魔力がこもる。
少しずつ、少しずつ、穴を空ける。この音を聞いた人が懐かしい気持ちになるように、魔法を込める。
気づけば、時間が経っていて、工房にはもう、父とヤルチェしか残っていなかった。




