168話:三年前と今
「え、ですが、なるべく一室にしてほしいと……」
宿のものが困っているではないか。
「……ねえ、ぼくが昔言ったことを覚えている?」
「はい、全部覚えていますよ?」
なぜなら、シェイラはたいそう記憶力がいい。
「よかった。じゃあ、もう一度言わせないでほしい」
「どれのことを言ってます?」
「……覚えていても、場面にあった言葉が浮かばなかったら意味がない」
「この場面に合う言葉は、わたしには思い当たりませんが?」
なにせ、宿の人間が困っている。だから、ふたりで一部屋を使えと言われたのだ。
イディオンとの過去の会話に思い当たるものはない。
はあ、とイディオンが大きな溜息をついた。利き手で両目を抑える。
「……ぼくが、何歳になったか計算できる?」
「十九ですね! 初秋に、二十歳です」
「このあいだ、大きくなったって言ってくれていたよね?」
「はい、それはもう。腹が立つくらいに」
「……そろそろ察してほしい」
この会話を聞いていた宿の男のほうが、イディオンを不憫に思ったようだった。
仕方ないから二部屋取ってやると許可が出ると、シェイラは疑問が頭にいっぱい浮かんだ。
「他のお客さんのほうは大丈夫なんでしょうか?」
「知らないよ、他の客のことなんか」
イディオンは、なぜか子どもの頃に戻ったような拗ねた顔で、案内された部屋の戸をくぐっていった。シェイラももう一方の部屋に荷物を置きにいく。
すでに夕闇で、鎧戸も窓も閉まっていが、懸崖の部屋だから景色がよいのだという。明日の朝が楽しみだった。
シェイラは荷物を整理して、長櫃にしまった。どれくらいかわからないが、しばらく滞在する。色んなものを持ってきていた。寝台のうえで、ぼーっと天井の模様を見る。それから、部屋を出て階段をのぼる。
「イディさん?! なにしているんですか」
うるさい居酒屋まで顔を上げれば、すでにイディオンがいた。そして、なぜだか樽酒をなみなみと注がれて、樽杯を呷っている。酔っぱらいに口笛を吹かれて、呷っている。
シェイラは、大丈夫であろうか、とおろおろした。
「イディさん、やめましょう。体によくないですよ」
「もう酒くらい飲める」
イディオンはぶすっとしたまま答える。だが、顔が赤い。これは、よろしくない。
「それはいいんですが、一気飲みはですね……」
「シェイラも、飲めるよね? まさか麦酒しか飲めないとか?」
「わたしは酔いませんので、なんでもいくらでも飲めます」
「は?」
「正直、味のちがいはよくわからないんですが、いくら飲んでも酔っぱらいませんので、ただの水分補給ですね」
シェイラが答えたあとのイディオンの行動もよくわからなかった。残ってた酒をさらに呷って、おかわりを注文する。
「顔が赤いのでやめたほうが……」
言ったそばから、イディオンは突然卓に倒れた。近くの酔っぱらいが、「だらしねえなあ」と品なく笑い飛ばす。
「もう、なにしているんですか」
世話の焼ける子だ、とシェイラは言いながら、{浮遊}でイディオンの体を浮かすと、階下に下がった。
「失礼しますよ」
借りた部屋の寝台に、イディオンの体を着地させる。
「……シェイラ」
つぶやく声にシェイラは瞠目して、それから微笑する。
「仕方がないですねえ」
失礼します、ともう一度言うと、シェイラはイディオンの手首を取った。腱の張った、しっかりとした手首だった。
一瞬、手が止まる。
寸暇を置いて、魔導を発動させる。
({解析})
青銀の〈導脈〉の河を感じる。迸る魔力がよどみなく流れている。眼前にあるような、きれいな魔力の流れだった。辿って離れるようにして、イディオンの内部にある酒精の毒を見つける。
呪文を唱える。サルオン老師から教わった魔導。この三年でなんとか括り付けたもののひとつ。
──{修復}。
サルオンほどのものではないが、この程度の毒であれば、シェイラでもできるようになった。{修復}はとても便利な魔法だ。こうして、だれかを癒やすことができるのだから。
イディオンの内部の分解が進むのを感じてから、シェイラは手を離した。つかんだ腕を敷布の下に入れて、隠すようにする。
「……おやすみなさい、イディさん」
滞在する客室に戻った。寝台に横になりながら、ほんのわずかに、指先にふれていた感覚を見つめる。
「ほんとに、大きくなったんですね……」
シェイラの知らない手だった。
見つめているうちに、気づけば体の力がゆるんで、すうっと眠りについていた。
そうして、今朝だった。
まだ、シェイラは、イディオンがいることに慣れていなかった。昨日、勝手にふれてしまった感覚を思い出しながら、表情を確認すると、昨夜の顔の赤さは残っていなかった。{修復}が効いたのだとわかる。
「──ぼくも、まだシェイラの存在に慣れない」
イディオンは、シェイラにそう笑いかけた。笑い方が昔と一緒だった。この青年が、あの三年前の少年だとわかる笑みだった。
それから、気まずそうにシェイラのほうを窺う仕草も、一緒だった。
「あのさ……もしかして、ぼく、昨日の夜、倒れた……?」
なんだかそれは、ほっとした。シェイラは、数年前の感じを思い出して、からかうように伝える。
「はい。仕方ないので、{浮遊}でぷかーっと運びました」
「うっ」
致死毒を飲んだような声がする。
「もう。大きくなったからって、お酒の一気飲みはだめですよ? 体によくありません」
「…………最悪だ」
「イディさん、お酒にあまり強くない体質みたいですね。これからは、飲みすぎないように」
「……はい」
「調子に乗ったらだめなんですからね?」
「……はい」
「ちなみに、今から、日課の瞑想をしようと思っていました。イディさんも、しますか?」
「……うん」
シェイラが問うと、イディオンの声はしょんぼりと項垂れていて、笑い出しそうになった。声は低くなったし、背も伸びた。だけど、そこにはちゃんとシェイラの知るイディオンがいて、おかしくてたまらなかった。
そうして、ふたりで、瞑想をはじめた。




