165話:約束の成就(2)
ぽつりとつぶやかれる。
シェイラは慌てて、鋸壁から下りた。着地して、イディオンの視界に入るようにする。
「ご、ごめんなさい。わたし、なにを忘れたんでしょうか。ほんとうに、わからずで……」
前髪でイディオンの表情が見えなかった。昔みたいに、泣かせてしまっただろうか。泣くことがないようにおまじないをかけたのに、シェイラが泣かせてしまうなんて、そんなことあるだろうか。
「……魔導師になったら、って言った」
シェイラが慌てふためいているうちに、イディオンがまたつぶやいた。
不貞腐れているような言い方で、よく聞こえなかった。
「すみません、もう一回言ってください。よく聞こえなかったです」
シェイラはもう一歩踏み込む。覗き込む。
そうすると、イディオンの目と合った。上からだからだろうか。縹色に胸の底まで覗き込まれるようだった。
「魔導師になったら、いいって言っていたよね?」
「魔導師になったら……」
たしかにイディオンは昨日、魔導師になった。シェイラが叙任した。
「最後にも確認した。必ず行くから、待っていてほしい、と」
(最後……)
その言葉で、シェイラのなかに縹色が入り込んで、強く思い出されるやり取りがあった。守れないと思っていた。そう思っていたから、記憶の奥底に沈めていたやり取り。
『じゃあ、もし……、ぼくが、きちんと魔法を身につけて、あなたの隣に堂々と立てるようになったら、ずっと一緒にいてもいい?』
『魔導師になったら、いいですよ』
シェイラがそう、条件を出したのだ。
『わたしと同じ、魔導師になったらいいですよ。ずっと、を許可して差し上げます』
『……それ、ほんとう?』
『ほんとうです』
『ほんとうに、ほんとう?』
『はい、嘘はつきません』
思い出して、シェイラはぽかんとした。数日前の再会のように、イディオンを見上げる。
その瞬間、イディオンが、やっと思い出してくれたか、と安心したように笑った。
「言ったよね?」
シェイラは唖然としたまま、その確認を受ける。
「——魔導師になったら、ずっと隣にいてくれるって。隣にいていい、って」
言った。たしかに、言った。約束した。
「嘘はつかないって、話していただろう?」
奥底に響くような柳弦の音だった。
シェイラは悟る。条件を付けて、手の平で転がしたつもりになっていたけれど、あの時、転がされていたのはシェイラのほうだったのだ。——数年後にわかる形で。
「なんで……」
自分はあんな約束をしたのだろう。
わかると、すうっと後ろ足を引きたくなった。
(そもそもあれは……)
シェイラが導師という立場を越えて、イディオンと必要以上にわかり合ってしまわないための、誓いだった。そのあともう、互いに十分すぎるほど踏み入って、わかり合ってしまった。本来なら意味のない約束だったのに、それでも約束をしたのは、なぜだったのか。
シェイラの自問は、イディオンには問われたように聞こえたらしい。
訊いていないことを答えられる。
「——あなたにもらったものを返すために」
イディオンは自分の両手を見た。そのまま、手甲を握りしめるように、両手ともに拳を作る。
「残り二年……それがシェイラの寿命なら、それまでにもらったものを返したい」
その答えを聞いて、シェイラは頭のなかが明瞭になった。
そういうことか、とどこかでほっとする。
少し、笑みが浮かんだ。イディオンらしい。シェイラの手伝いを買って出てくれたのも、そういうことなのだ。
恩を、感じてくれているのだ。
魔法が使えるきっかけとなったシェイラに、恩を返したいのだろう。
それはやさしくて思いやりのあるイディオンらしさで、大いに納得できることだった。引こうとしていた後ろ足が踏み留まる。
致し方ない。
そう、自分を納得させる。もう、約束もしてしまったのだから、反故にすることはできない。
「……わかりましたよ」
シェイラは、溜息をついてイディオンを見上げる。むず痒いものがあった。高山の春風が頬に当たると、やけに冷たく感じた。
「仕方……ありませんね」
シェイラは笑う。
「約束だから、許して差し上げます」
ずっと、を。
残り二年を。
「一緒にいてくださる……ということなんですね?」
「そうだよ」
イディオンが肯く。
眩しそうにシェイラを見る。見下ろされているのに、たしかに、自分を慕ってくれている顔だった。昔と、変わらなかった。
「そうしたら……」
シェイラはぺこりと頭を下げる。
「——お願いします。わたしと一緒に、これからいてください。調査を手伝ってください。それから……」
胸の奥に、舞う光景があった。あの日の、あたたかな気持ちがあふれる。
「ありがとう……ございます」
「——ああ」
イディオンの返事は短かったけれど、そこに、少年の頃の約束を果たしに来た青年の、たしかな気持ちを感じられた。
置いてきぼりにされてしまうと思っていた。
みんなが変わってしまって、自分だけが取り残されてしまうのだ、と。自分はそうして、朽ちていくのだと思っていた。
だが、変わることもありながらも、ひとりではないのだと気づく。
——シェイラの隣には、イディオンがいてくれる。
それは、二年という残りの月日を、春光のぬくもりであたためてくれるような、やさしい約束の成就だった。
(第8章:長じた王子——了——)
【8章登場人物】
グシェアネス ※再掲
ガルバディアの絶対女王。
エヴェリヤン ※再掲
ガルバディア女王の王配。
ムディアン ※再掲
ガルバディアの王太子。第二王子。
ティアラン ※再掲
ガルバディアの王女。一番年下。
オモノン老師
ヴェッセンダリアの十二老師の一人。〈魔導霧〉研究の魔導師。600歳越え。
大占卜師
星ノ国アベルの首長。齢200を超える。星詠みの結果、詠にして各国に周知する。
典医長
マイスリー医術国の医療魔術師でおり、医術国の首長である〈藍王〉。かつてイディオンを診断した。




