164話:約束の成就(1)
新月の春闇に、橄欖石を散りばめたような星明かりが美しかった。城壁上の歩廊を進んでいると、自分も空に浮かんで歩いているようだ。
シェイラは、足を止める。振り返る。
イディオンに問う。
「イディさん、なぜ……」
自分が行く、などと言ったのか。
結局、時間が来てしまって、その場で仔細を聞くことができなかった。ムディアンは、兄上の意向に従うとしめくくってしまうし、ガザンは微笑して、なにも言わない。オモノン老師は目をつむって、反応がなかった。だから、この星芒またたく頃合いに、シェイラからイディオンに声をかけ、時間をもらったのだ。
「あなたは王子殿下ですのに……」
シェイラの声は尻すぼみになる。
助力は願ったが、王子が来てくれとは言ってない。来てくれるとも思っていない。ガルバディアに限らず、どの国にもそんなことは期待していなかった。……ヴィクトルにでさえも。
「——関係があるのか?」
そんなことを思っていると、イディオンからは幾分鋭い弦が弾かれた。
「え……?」
「王子であることが、あなたに協力することに関係があるのか」
厳しい視線だった。
イディオンからそんな視線を、上から射抜くように見られたことがない。二の句を忘れる。
「——あなたは……」
イディオンがつづける。
「三年前、ぼくが王子であるから、助けたのか?」
「いいえ!」
それはすぐに、拒否が出てきた。首を振る。
ちがう。そんなわけがなかった。シェイラはあの頃、お守りを探す、傷ついた少年を助けたかったのだ。同じ痛みを持つ子を、助けたかったのだ。
「——同じだ」
シェイラのそんな思考を読んだように、イディオンの声はやわらぐ。
「同じなんだ、シェイラ」
弦がおだやかに弾かれる。
「それを、わかってほしい」
シェイラは、前を向いた。下を見る。朽ちた石煉瓦の歩廊が目に入る。
(変わらないですね)
真っ直ぐで、やさしいところが変わらない。背が伸びて、逆に芯が安定したようにさえ感じる。
石床に沁み込むものをシェイラは受け取った。ぎゅっと、胸元の青銀石を握る。
「……わかりました」
もう一度振り返って素直に受け止めれば、イディオンが首肯する。言葉はなかった。
そのまま、満点の空に音が吸い上げられていく。
「——それに……」
幾分か時間が経ってからだった。ずっと考えていたのだろうか。イディオンは付け足す。
「ぼくは、約束を果たしに来たんだ」
シェイラは、鋸壁の凸部に腰かけていた。縹色に浮かぶ強い意志を見る。イディオンは立ったままだったので、視線の交わる角度が昔と同じだった。見上げられる。
「約束を、覚えているか?」
「約束……」
魔法を使う理由を探そう。使いつづけるための理由を一緒に探そう。
そう話したことが脳裏をよぎる。
「……ごめんなさい、イディさん。わたしはもう、魔法を使う理由は持っています。一緒に探そうという約束は果たせそうにないです」
「そちらではない」
歩廊に水でも撒いたかのように、ぴしゃっとイディオンは言った。
「そっちじゃ……ない。それに、その約束は、ぼくも果たせない。ぼくもすでに……持っている」
イディオンの視線は、シェイラの斜め下に移ろう。後ろめたそうに、滑っていった。
どんな理由だろうか。
「聞いてみても、よかったりしますか……?」
シェイラは冗談交じりに尋ねる。真剣味を帯びた空気を、少しだけゆるめたかった。昔よくそうしたようにからかい調子を含ませれば、イディオンは明確に嫌悪を浮かべた。
「言わない」
シェイラはびっくりする。
言えないではなく、言わないという意志だった。気づまりさが残留する。
「……そうですか」
シェイラは、動揺するのを隠せなかった。取り繕う。
昔はこんなことなかったのに、という変化。言いたくない、という拒否。成長はうれしいのに、置いてきぼりにされるような気持ちが、ふいに思い出される。
そんなシェイラの心境を読み取ったのだろうか。
イディオンは、はっとして、次第にばつの悪そうな表情になった。
気まずいまま、沈黙が落ちる。
(……しっかりしませんと)
シェイラはイディオンより年上だ。年上らしく、こういう空気は払拭しなければならない。
言葉を考える。なにを皮切りにしよう。
頭を忙しく動かして、ふと、イディオンがさっき言った言葉を反芻するように口にした。
「そっちじゃない、って……?」
シェイラが首をかしげると、イディオンが信じられないことを聞いた、という顔をした。嫌悪でも、気づまりでも、ばつの悪さでもなかった。
正気を疑う。そういう顔だった。
「まさか、忘れたのか?」
「え」
イディオンの顔は、呆れを通して怒りとも言えぬものを浮かべていた。秀眉をひそめて、シェイラに詰め寄るように問う。
「ほんとうに、忘れたの?」
「えと……」
「ぼく、言ったよね? きちんと約束した。まさか、覚えていないのか」
気色ばむイディオンに、シェイラは、あわあわと唇を震わせた。頭をさっきよりも回転させる。
イディオンとの約束。なんであっただろう。当時、いっぱい約束したのだ。忘れたつもりもないし、記憶力がいいシェイラはふつう忘れないのだが、どうしても思い出せない。なんのことを言っているのだろう。だんだんと、顔が蒼白になってくる。
そうこうしているうちに、イディオンの顔はしょげた。昔を思い出す。子犬みたいだった。耳があったら、絶対に垂れているようなそんな顔だ。
「……ぼくは、一度も忘れたことがなかったのに」




