16話:関わりの変化
春から初夏へ移り変わるエレンシアの月、第五の〈風ノ日〉。
その日まで、シェイラからキルシュ師に提案したことは、実施されることがなかった。これまでといつも通りで、ユートががんばって過ごすことのできる授業もあれば、飛び出していく授業もあった。それに付き合うシェイラというのも、見慣れた光景となった。
(話し方がよくなかったでしょうか……)
丁寧に説明した。道理もわきまえた。キルシュの思いも踏まえた……つもりだ。
けれど、こちらから話したことが実施されないということは、そういうことなのだろう。
シェイラの提案は、ユートには妥当だったとしても、キルシュには妥当ではなかった。
思うと、なんだか悲しかった。
キルシュに対してではない。自分にだ。自分の伝え方がよくなかったから、キルシュはやろうと思えなかったのだ。
智と書架の国ヴェッセンダリアには、〝学びし者は常に真理を抱く〟という戒めの言葉がある。
学びし者は、話しの受け手や、学びを受ける相手のことを指す。これは教えるものが、教えたことや伝えたことで満足せず、相手の反応を見たうえで、教え方や伝え方を変えなければいけない、という導師以上の者たちに伝えられる戒めだ。
やれない、わからない、できない、という相手の反応こそが真理である。
シェイラとキルシュの関係はまさにこれだ。シェイラは仕事として、子どもとの関わりに困っているキルシュを導くためにやってきた。
つまり、シェイラの仕事では、学びし者はキルシュになる。
そのキルシュがシェイラの伝えたことを行えないということは、シェイラの伝え方がまちがっていたということだ。学びし者は常に真理を抱く。学び手の行動は、常に伝え手の伝えた結果なのだ。
それは導師という立場として、きちんと反省せねばならなかった。学びし者に合わないことを提案するばかりでいる導師であってはならなかった。
(次にできることは、なんでしょうか)
手立てはいくつかある。これで詰まってしまうわけではない。
ただ、失敗してしまったかもしれない、という悲しみがシェイラのなかには浮かんでいた。
浮かんでいるものを見つめながら、シェイラは分離して思考を働かせる。次なる手立てを頭のなかで連立させていく。
体の状態ではなく思考に意識を持っていきながら、シェイラはキルシュとユートの教室に足を踏み入れた。
長靴の音が、こつんっと響くのをどこかで感じながら、戸をくぐり抜ける。
そこで耳のなかに入りこんできた声に、急速に現実が戻ってきた。
「——ユートさん、すみません、これを教導館まで届けてきてくれませんか」
キルシュの声が、ちょうどそう響いた。
頼まれたユートは椅子のうえで片膝をあげていて、おれ? とびっくりしたように自分自身を指差す。
「はい、あなたです。ただし、階段を使って行ってきてくださいね。《《まちがって別の道で行かないように》》」
シェイラは何度もまたたきをする。
今来たばかりで、前後の文脈を把握できていない。
ただ、キルシュがユートにおつかいを頼んでいる場面を認めた。認めて、目を何度もぱちぱちとさせる。おつかいは、シェイラが提案したことのひとつだった。
「わかったっ!」
ユートは、ぱあっと喜色を浮かべた。堂々と動ける時間をもらえて、うれしそうだった。キルシュに頼まれた羊皮紙の束を受け取って、踊り跳ねる勢いで教室から出ていく。
「では、ユートさんが戻ってくるまで皆さんは——」
キルシュは何ごともなかったように授業の進行を続ける。シェイラはしばらく呆気に取られていた。
今日の授業は文学だった。授業の流れからすると、このあとは、視写がある。
文学における視写は欠かせない。古典などの文章を書き写すことで、呪文詠唱の基礎となる文や文法感覚を養える。加えて、視写は集中力を養うのにも最適だ。魔法や魔術を扱うにあたって集中力は必須となる。大魔導師サージェストと十二人の弟子たちが取りまとめた主要科目と教導目録は、魔導につながるあらゆる礎となっているのだ。
キルシュのおつかいから戻ってきたユートは、授業が進行して視写の時間になると、案の定、写本の時のように、いらいらとしはじめた。肩が強張り、足を揺らしはじめる。指先の翰筆には力がこもりはじめる。いらだちが頂点に達する前の、前兆行動だ。
シェイラは声をかけようか迷った。本人がいらだって爆発する前に休憩が必要だろう、と。
迷って声を出そうとした瞬間、それは起きた。
ユートが手を挙げて、キルシュ師を呼ぶ。キルシュは心得たように、ユートのそばに近寄った。集中している他の子の刺激にならないように、小声でやり取りする。
「どうしましたか?」
「先生、ちょっと……休憩したい」
「わかりました。いつも通り、十分くらいで大丈夫ですか? それとももうちょっと必要ですか?」
「……十分でたぶん大丈夫……です。もし戻ってきて、またつらくなったら、また休んでもいい?」
「もちろん構いません。行ってらっしゃい。マヌル師にきちんと礼を言うのですよ」
「わかった!」
小声だったが、感覚を拡張しているシェイラにはよく聞こえた。
やり取りに驚きを覚える。休憩も、シェイラが提案したものだった。
いつも通り、と言っていた。いつの間に、いつも通り、になっていたのだろう。
シェイラはびっくりしたまま休憩するユートを見送って、キルシュを見た。キルシュと目があって、それから微笑みを返される。
あとでゆっくりお話をしましょう。
そう言っているようなあたたかい教師の眼差しだった。




