150話:三年の月日
黒い長裙衣に裾の笹縁。いつもの葡萄色の長外套には、新しくなったばかりの銀の肩留め徽章。十本の指には、意匠の異なる指輪の数々。耳には、千粒打ちの縁取りが施された瑠璃の飾り。
胸元には、数年前にもらった石を紐に付けて、首に何度か巻いて飾る。
──青銀石。
シェイラは、勝手にそう名付けた。
「今日は、このへんにしましょうか」
壁鏡を覗き込んで、位置を微調整する。
鎖骨のあいだに収まる青銀の石は、紫の遊色をたたえて、鏡越しでも輝いている。
自然、笑みが浮かんだ。
数年前に別れた少年のことを思い出す。
短く、けれど、たしかなひと時であった。あの少年が魔法を使えるようになった日のできごとは、今でもシェイラのなかをあたたかく照らしている。
三年が経った。
道に迷うことも、胸が詰まるように感じることも、そして今、かたく決意するきっかけになったできごとも、この石と少年のことを思い出すと、自分を慰めてくれた。
あのやさしい少年との縹色の記憶は、今のシェイラの足元を固めてくれている。
(お元気でしょうか)
イディさん、とシェイラはつぶやく。
元気ではあろう。イディオンからは定期的に文が{転送}で届いていたから、元気なのは知っている。
いつだったか、体がみしみし言って毎日痛くて痛くてたまらないと、悲鳴に波打った字とともに近況が届いたことがあった。
〈導脈〉の制御がうまくいくようになって、遅くやってきた成長痛というものなのだろう。
それも、一年くらい前には収まって、最近の手紙は、怜悧とした落ち着いた筆致で書かれるようになった。少し幼さのあった墨の滲みは、もう見られなかった。
そういう成長に、シェイラは少しほろ苦さを覚える。
イディオンだけではない。
シェイラの関わった子どもたちや、教師たちからは、さまざまな近況が届いて、数々の成長や、新天地での話が届けられていた。
新しい魔法を身につけた子。
喋れるようになった娘。
大学府へと進学した者。
そういう数々の明るい話はシェイラの気持ちをぱっと華やかにしながら、同時に少しだけ置いて行かれたような気持ちにさせる。
──二年。
あと、二年が、シェイラの寿命だった。
「死にたがりと呼んでやろう」
変態魔導師サルオンからは、そう言われた。
痛めた体を横たえた自室で告げられた。
この三年で、シェイラはさらに寿命を一年近く削った。だから、残り二年になった。致し方なく、悔いはなかった。
「まあ、俺さまは問題ない。早々に検死体が手に入るだけだからな」
「サルオン」
「構いません、師匠。そういう約束で、わたしは{修復}をかけてもらいました。死んだ自分の体はどうでもいいですからね」
シェイラ、と一緒にいたメイベ・ガザンは、今度はシェイラを諌めるようにする。
緋色の瞳には、弟子への深い憐れみがたたえられていて、シェイラはいやだった。
薄く笑っていらえる。
「いいんです。わかっていたことです」
「あなたは足掻こうとしないの?」
ガザンは問う。
シェイラはそれにはにっこりと笑みを浮かべた。
「もう足掻きました。それで、今は{修復}をかけてもらっています。それに、まだ二年あるんです。できることはたくさんあります。感じられることも。一日一日を大事に生きることも」
「でも、あなた、わたくしの十分の一も生きられないのよ?」
「長さが大事なわけではありません。どれだけ懸命に生きるか。どれだけ日々を大切に過ごすかです」
「シェイラ、でもね──」
「師匠が教えてくれたんですよ。あの一年の経験を、わたしにくれました。わたしはほんとうに感謝しています。あの一年があるから、今はそう思えます。残りの二年を大事にしようと」
ただ……、とシェイラはわずかな寂寥を浮かべる。
「二年しかないと、関わった方々のお話がそれ以上聞けないですね」
それだけが残念だった。
だから、置いてきぼりにされるような気持ちになるのだろう。
ぎゅっと、シェイラはまぶたを閉じる。
「──師匠、わたしも星都に連れていってください」
開くと、シェイラは青金色の瞳に強い光を浮かべて、ガザンを見た。
ガザンから見返される。
「今度の会議にあなたも同席するということ?」
「はい。──そこで、わたしはわたしに協力していただく人を見つけようと思います」
二年、ある。なら、シェイラはなさねばならないことがある。
(この魔導呪法を使って……)
突き止めなければいけないことが、ある。
『一緒に探そう』
そう言ったイディオン少年の顔が思い浮かんだ。
魔法を使う理由を一緒に探す。
そういう約束であった。
(ごめんなさい、イディさん)
シェイラは、その約束は守れない。もうひとつの約束とともに、守ることができない。
もう、空っぽではない。
今のシェイラには、魔法を使う明確な理由があった。この三年で見つけた理由。残り二年でなさねばならないこと。
──子どもたちを救う。
そのために、シェイラは魔法を、魔導呪法を使う。
たとえ、これ以上命を削ることになったとしても、シェイラは子どもたちのために魔法を使うと決めている。
「……わかったわ」
シェイラの気持ちを知っているからだろう。
ガザンは、得心したように肯いた。それから何事かを思い出したように視線が移ろって、ぱっと弾けた。少女のような笑顔を浮かべる。
「ちょうどいいわね」
「なにがです?」
「ちょうどいいわ。すごく、ちょうどいい」
ガザンは思い至ったことにうれしそうにした。
「ちょうど星都で会おうとしている子がいたのよ」
「会おうとしていた子?」
「そう。最近、ヴェッセンダスの{登録}を受けて、魔導師と認められる子がいてね。その子の魔導師叙任を、星都でついでにやる予定だったのよ」
「はあ……」
そんな話、聞いたことがあっただろうか。
魔導師に叙されるなら、どんな魔法なのか噂話も含めて耳に入ってくるはずだったが、シェイラはなにも知らない。
「あなた、その叙任式、わたくしの代わりにやりなさい」
「ええっ?」
叙任なんてやったことがない。
そんなこと、シェイラに任せて大丈夫であろうか。
「ちゃんとわたくしもいるから大丈夫よ。あなたにはもう、それをやる資格があるからね」
ガザンはそう言って片目で目配せをする。
「シェイラータ準師」
「……はい」
「導師より昇格したあなたが、わたくしの代わりに叙任式を執り行いなさいな?」
悪戯好きな笑みを浮かべたガザンは、そうシェイラに命じたのであった。
シェイラは、そんなことを思い出しながら、鏡の前で最後の身だしなみを整える。
薄紅を唇に引き、随分と伸びた長い髪の半分を結い上げ、側頭は編む。
(少しだけ、おめかしですよ)
なにせ、星都大陸会議だ。サージェシアすべての国々の代表が、参加する。
(トールも……参加するでしょうか)
シェイラはこの春、二十二になった。
なら、ヴィクトルは、今二十三だ。
三年前に会った時よりも、さらに、秀麗さが増しているかもしれない。そう思うと、シェイラの頬は少し紅潮した。
同時に、わずかにつきっと引っ張られるような痛みを感じる。けれど、その痛みは昔と比べて随分とやわらいだ。そういえば古傷があったと、思い出す程度の痛みだった。
「会えるでしょうか……」
シェイラが魔法を求めた理由。
無事な姿を、また見られればいい。
それだけで、今は満足で、ただヴィクトルを想っていられる。
ガザンに行くわよと声をかけられながら、シェイラは知らずに、胸元の青銀石をぎゅっと握り込んだ。




