143話:ヴィクトルの意志
ヴィクトルは、自分のなかを、目に見えないなにかが突き抜けていくのを感じた。
オルリア聖王国の王太子。
王族としての無私。
聖剣使い。
〈霧の厄禍〉を祓うもの。
聖女の伴侶となるもの。
そういう、さまざまな自分自身に貼られていた紙札が、突き抜けていく振動とともに、古びた翡翠スギの樹皮のように落ちていく気がした。
今まで、ヴィクトルがなしてきたこと、無私を貼り付けてきたことが、意味のない、たいしたこともない、虚構のかたまりであるような感覚を得た。
敷かれた{導線}という言葉を、ふいに強く、自分に刻まれるように思い出す。
『かわいそうな人です』
そう言った、幼い頃のシェイラの顔も。
——自分はこの、魔法が満ち、霧に覆われる大陸という巨大装置に敷かれた、{導線}だ。おそらくはだれよりも、この装置に適合した{導線}。サージェストが古代帝国を樹立してから千六百年。そのなかで一番適応しきった{導線}なのであった。
どうしようもないほどに、自分というもののない、生まれるより前からすべて造られてきた{導線}。
生まれてしまったのだから、どうすることもできないと言いわけを重ね、責務という言葉に甘えてきた、しがない{導線}。
(それなのに)
ずっと、隣に、いようとしてくれていたのか。
魔法が使えない苦しみを抱えながら。その苦しみを一人で負い、隣にいようとしてくれた。
——命を削ってまで。
『——トールには……わかりません』
わかっていた。わかっていたつもりだった。言葉だけの人間ではない、と。けれど、ちがった。
ひとりで静かにエシアの河辺で砂金をさらうように、ひとりで静かに、長外套の汚れを取る。そういう静かな情を、身のうちに宿しているのが、シェイラータだった。
(この感情を……)
打たれるように、突き抜けていったものを、なんと呼べばいいのだろう。
なんと呼んで、彼女に応じればよいのか、ヴィクトルはわからなかった。およそ説明のつかぬ情は、わからず、澱となる。虚ろを感じていたところに、溜まり落ちていく。溜まったものが、霧が凝るように、固まっていく。
これまで足を止めてきた、一切合切のしがらみが、すべて剥がれ落ち、なにをなさねばならないのか、ヴィクトルのなかで定まっていく気配がした。結ばれ、僅かな間のうちに、強い意志が、己のなかに収斂するのを、感じた。
「——わたくしが、」
メイベ・ガザンは、問う。
「なぜ、シェイラの隠したがっていたこのような話を、あなたたちにしたかわかる?」
ヴィクトルは、顔を上げる。緋色の視線を、紅の双眼で迎え撃つ。
「——わかる」
短い、一言。
迷いも、虚ろも、なかった。あるのは、収斂しきった意志のみだった。
「そう。それはよかったわ。《《ヴィクトル王太子》》」
メイベ・ガザンの眼が、心底楽しいものを見た、そう言っていた。
ヴィクトルは立ち上がる。外套を翻し、出口へと向かう。
「シェイラに会って行かないの?」
老師の疑問に、ヴィクトルは瞥見して答える。
「今の私には、彼女に会う資格がない」
「そうかしら? きっと喜ぶわよ」
「……会わせる顔がない」
「…………」
そう言って、ヴィクトルは扉からすべるように姿を消し、そのまま{転移}で王城をあとにした。
離宮の、滞在する場所に移る。
自身の仮宿となった部屋に、体をすべり込ませる。そうしようとしたところ、背に声がかかった。
「——ヴィック!」
体調は大丈夫であろうか。
室内着に着替えたヒバリは、いささか顔色が悪そうだった。
「お城のほうは大丈夫だった? あおい……なんだっけ、あおいばさばさが出たんでしょう?」
そう尋ねるヒバリは、いつもどおりだった。
いつもどおり、ヴィクトルに他愛のない会話を求める、彼女だった。
きっと、これまでのヴィクトルであれば、それに応じていた。「あおいばさばさってなんだ」と笑いながら、無私の仮面を貼り付けて、他愛のない返答をしていた。
けれど、もう、できない。
異界より、こちらの都合で勝手に招いた彼女に、むごいことをする。それをする罪悪感を、ヴィクトルは真よりはじめて覚えながらも、告げた。
「——ヒバリ、今まですまなかった」
「え?」
なんのこと? とヒバリはきょとんとする。
その無邪気さに、心の底から詫びる。
「もう私は……」
ヒバリの目を見る。
しっかりと、伝える。
「君と、他愛のない関係は結べない」
ヴィクトルの言葉に、ヒバリが目を見開く。
「君のことを、ラータと同じように思うことはできない。ずっと……はぐらかしてきて、すまなかった」
なんで、とヒバリがつぶやくように問う。
その言葉を噛み砕いだように、感情の乗った声がヴィクトルに訊く。
「なんで……! だって、あたしはそもそも、シェイラさんと同じような立場を望んだわけじゃない! ただ、楽しくて、他愛のない、そういう関係であればよくて——」
「けじめなんだ」
ヒバリの叫びに、ヴィクトルは言う。
「私なりの、ラータへの、君への、けじめなんだ。すまない。許してくれとは言わない。ただ、今までの謝罪をさせてくれ。……すまなかった」
「ヴィック……!」
「君の……君の、他愛のない関係というのは、結べない。これからはできない。なぜなら、それは君の、心からの望みだろう? 心から願い、求めているものだろう? だったら、私は同じものを、君に返すことができない」
ヴィクトルはヒバリの栗色の瞳に、そう伝えた。
ヒバリの目が見開かれる。滲む。滲んで、そうしてぱっと元来た道に消えていった。
後味の悪さを、ヴィクトルは、己が歩んできた汚濁とともに呑み込む。そして、すべてを呑み込んだうえで、顔を上げた。
強い意志を、胸に刻む。
——もう、ためらわない。
言いわけをしない。
(必ず、ラータを……)
ヴィクトルは、紅の双眼にその意志を浮かべた。




