142話:秘密の話(2)
聞いたヴィクトルは、硬直していた。
リマスの話を聞いた以上の衝撃を、受け止められないのだと思った。
ガザンはそれに畳みかけるように言う。
「あの子の、赤紫の長外套、あなたがあげたものでしょう?」
ヴィクトルの紅眼が揺らぐ。
「あれね、シェイラ、手洗いをしているの。知っていて? 魔法が使えるようになって、長外套なんて一瞬で{洗濯}できるのに、手洗いしているの。ばかだと思わない?」
ガザンが、ヴィクトルにもイディオンにも問うようにする。
ふたりとも、応えなかった。
「わたくしがね、なんでそんな非効率なことをしているのか聞いたの。そうしたら、あの子、なんて答えたと思う?」
イディオンは、お守りを握り込む。想像がつく。
「手間をかけて作ってもらったものだから、きちんと丁寧に、手間をかけて洗いたいのですって。ばかでしょう、ほんとうに。ばかで、どうしようもなく、一途。そう思わない?」
イディオンは笑顔の老師を見る。
(きっと老師は……)
責めているのだ、この男を。
シェイラを追いやったこの男を、老師は笑みをたたえながら心の奥底で怒りを覚え、責めているのだ。
「それだけ想われているのに、あなたは聖女さまを侍らせているのでしょう?」
「…………私は」
「いいのよ。言いわけをしなくて。詮ないことだもの。聖王家に生まれて、六百年ぶりに選ばれた聖剣使い。しがらみだらけよ。ひとりの女の子のために、すべてを放り出すことなんてできないもの。この魔法と霧のあふれる大陸では詮ないこと。それが、王家に生まれたものの宿命というものだわ。わたくしにも覚えがあるからわかる」
ガザンは、どこまでも愉快そうになじり語る。
そして、最後に、ぞっとするような笑みを浮かべた。その笑みは、イディオンにも向けられる。
「もうひとつ、教えてあげましょう」
ガザンはそう言って、茶器を傾けた。
喉を、しっとりと濡らすように口にする。たっぷりと口のなかを転がすようにしてから、茶器を、受け皿に戻す。
「——呪術、というものを、ふたりは、どれほど知っているかしら」
かちゃん、と陶磁器のぶつかる音がした。茶器が受け皿に置かれる音であった。
ヴィクトル王太子は、椅子に腰を下ろしてから一切の反応がなかった。
代わりに、イディオンが答える。
「願いのために代償を払う。シェイラは、魔法を使えるようになるために、事故ではあるが、リマス師の命を代償として捧げ、願いを叶えた」
事故ではある、というのを強調してイディオンは告げた。
それがヴィクトルにどう伝わったのかはわからない。身じろぎひとつ、なかった。
ガザンは、酷薄な笑みを深める。
「そう。合っているわ。でも、半分だけ正解。ノザリアンナ呪術というのはそういうあまいものではないのよ」
ガザンはつづける。
「あの呪術を体系化した、ノザリアンナという魔導師はたいした魔導師よ。巷では魔女だの裏切り者だの好き放題言われているけれど、あの魔導師は、そうやって後ろ指をさされることさえも引き受けた、ほんとうの魔導師。闇の魔術によって定義を受けず、言葉で縛られない、闇のなかの闇、闇のなかの深淵、あるいは影。人間の、深い、負の部分。そういうものを、サージェストの十二人の弟子たちのうち、魔導師ノザリアンナだけが唯一、請け負った」
なぜそのような話がされるのだろう。
イディオンも、茫洋とした光を浮かべたヴィクトルも、ガザンを見た。
「けれど、よく言うでしょう? 深淵を覗く時、深淵もまた己を見ている、と。さて、これが呪術で言うとなにを示すのかわかるかしら?」
ガザンの問いに、イディオンは、体のなかを冷たい風が通っていくような心地を得た。
(そうだ……)
なぜ、気づかなかったのだろう。いや、もしかしたら、無意識に気づこうとしなかったのかもしれない。
シェイラは、たしかに、それについては一切語っていなかった。あえて、語らなかったのだと今時分、悟る。
「……存じ上げません」
ヴィクトルがぽつりと言う。
そうだろう。聖王家は、一番呪術とは無縁の家系だ。ノザリアンナ呪了国を、聖女とともに、聖剣の光で滅亡に追いやったのは、他でもないこの男の祖先である魔導師オルリアなのだから。
「そう。では、少し問い方を変えようかしら」
ガザンはもう一度茶器を取って、面白そうに表面を揺らす。
「斎王国の言葉にね、こういう言葉があるのよ」
茶を口にしてから、ガザンは連ねる。
「人を呪わば、穴ふたつ。どういう意味か、わかる?」
ガザンの次なる問いで、やっと聖剣使いのヴィクトルは答えに辿り着いたようであった。
気づいて膝が揺れ、手つかずの茶器をひっくり返す。香草茶の色が、ゆっくりと卓布に移っていく。
ガザンは優雅に茶器を口にして、つづきを述べる。
「魔導師ノザリアンナの呪術は、代償を払うもの。その代償とは、捧げる供物や生贄となって犠牲になるものだけではない。自分自身もまた、代償を払う」
ガザンは笑いつづける。
「ノザリアンナはね、まず絶世と言われていた美貌を失った。そして、当時大陸外から攻めてくる他国を打ち払った。次は、楽しいという感情。その次は、聞こえる耳、さらにその次は希望という光……そうやっていろんなものを代償として払ったのよ。すごい魔導師だと思わない?」
問いかけに、イディオンは気持ち悪さを覚えた。
歯のあいだから空気が漏れるようにして、尋ねる。
「では、シェイラは……」
自分のなにを代償に支払ったのですか、と。
ヴィクトルもまた、同じことを視線でガザンに問う。
だが、ガザンは、うっそりとするように笑った。
またもや、問われる。
「シェイラは、自分の使う魔導の光を、〈導脈〉と言っているかしら? なんて言っているのか聞いている?」
ヴィクトルは知らないと首を振る。
問われて、イディオンは答える。
「〈脈〉と言っているのを聞きました」
そうすると、ガザンは、少女のように笑った。
「そう。うまく言ったものね。語らないことは嘘をつくわけではないものね。……あの子らしいわ」
「〈導脈〉ではなく、なんと言うのですか」
ヴィクトルが恐れるように尋ねた。
イディオンも、冷たく吹きすさぶ胸の裡を持て余しながら、ガザンを見る。
老師は、茶面を揺らし見ながら言う。
「あの子は、願いを叶えてできあがった魔導の光を、自分が支払った代償の名を取って、自嘲するように名付けた」
しん、とする室内で、つぶやく。
「——〈命脈〉」
ガザンは、イディオンとヴィクトルに言う。
「シェイラは、自分の寿命を代償とした。だから、あの子は〈導脈〉の代わりに、〈命脈〉と、魔導呪法で行使する力を、そう名付けた」
十年よ、とガザンは告げる。
「三年半前の時点で、残りの寿命は十年。でも、今日、無理をした。……あと、どれくらい残っているのかしらね」
ほんとうにばかな子。
ガザンはつぶやくと、シェイラの眠っている寝室のほうを見て黙る。
不動の沈黙が蝕むようであった。
「——今日、無理をした、とは……?」
耳の奥で、〈命脈〉という言葉が反響している。イディオンは震える声で尋ねる。どういう意味だ、とガザンを見る。
訊かれたガザンは、すうっと目を細めた。それから、イディオンを試すようにいらえる。
「そのままの意味よ」
「……そのまま」
背筋を、冷たいものが流れていく。
「あの子には、サルオンの{修復}という魔導がかけられている。一日一定量の魔導の行使は問題ないように、働いているそうよ。体の自己治癒力を強化するようなものだ、と言っていたわね」
「……はい」
「だから、それと一緒。自己治癒力を上回る無理をすると、体が悲鳴をあげるでしょう? シェイラの場合は、そうすると残りの寿命を削っちゃうのよ。あとどれくらい残っているのか、ちょうど今、サルオンが治療しながら——」
「——六年だな」
いつの間にか、男が寝室の扉の前に立っていた。
煙管をくわえている。煙を吐く。
イディオンとヴィクトルが反応して顔をあげれば、男はもう一度言った。
「六年だ。本来は七年くらいあっただろうが、あの死に損ないは、すでに一度無理をした履歴がある。それと今日の分。合わせて削られてる」
「そう……」
ガザンが表情をなくして相槌を打つ。
「一度目の履歴から、{遠見}を強化していたが、今日はそもそも気づくのが遅れたからな。仕方ねえ」
「……わかったわ」
サルオンの言葉に、ガザンはさきほどの楽しそうな様子は些少も見られなかった。黙り込む。
(六年……)
その年数は、愕然と、イディオンの胸に響いた。




