140話:ふたりの老師
ヴィクトルが、王都ガルバーンに{転移}をすれば、これまで嗅いだことないほど濃厚でねっとりとしたあまい霧のにおいが、胃ノ腑を腐らせるのではないかというくらい、充満していた。
蟲と魔獣との戦いの場に慣れていないものでなければ、たえられるものではなかった。
(なんだこれは)
異様な臭気に、なれているはずのヴィクトルでさえ、鼻がもげそうになる。視界も、紫とも薄紅とも言えぬくぐもった霧と雨で狭窄していた。
人の気配の集まるところを肌でさぐりながら、雲霧のあいだをかいくぐるようにして聞こえてきた騒ぎの声に向かって走る。
そうして人垣の集まるところは、宮殿中央であった。笠のある柱廊に集まっていた。
「——シェイラ!」
切迫する声に、ヴィクトルは人垣に割り込んだ。
血溜まりに倒れるシェイラに、かつてのできごとが重なるようであった。
呆然と声が漏れ出る。
「ラータ……」
ふらふらと倒れるシェイラに膝をついた。
手を伸ばす。体中に銀色の蔦のような傷が覆っていた。見てわかる。意識がない。血で、べったりと顔に張りつく髪を取ってやりたかった。
激しい、平手打ちのような音が鳴った。
伸ばしたヴィクトルの手を、真向かいの——イディオンが振り払っていた。狩りの時に見せた、ヴィクトルを慕うような色は一切なかった。獰猛な、シャドゥーラの森にいる獣のような目が、ヴィクトルを射抜いていた。
無言の、攻防があった。
ふっと、先に視線を外したのは、ヴィクトルのほうであった。
「いったい、なにが……?」
無私の覆いが戻ってきて、事態把握のために、周囲に問う。
「〈蒼鷹〉が出ました」
答えたのは、金髪の、女魔導師だった。
「〈蒼鷹〉だと?」
ヴィクトルは、一度のみ交戦したことがある。決して油断してはいけない蟲だ。一体を倒すのに信じられない消耗をした覚えがある。
「〈雲虹〉は?」
加えて、〈雲虹〉もいたのであれば、尋常ではない事態であった。
数年に一回、いや数十年に一回規模の、災害に匹敵する。
「どちらもシェイラが……」
ちらっと、金髪の魔導師が倒れるシェイラを見やる。
そのあいだにも外れた視界で、イディオン王子がシェイラに懸命に呼びかけていた。血に汚れることも、涙に濡れる己の横顔を見られることもいとわず、必死に何度も名を呼ばう。
「ラータが……?」
信じられぬ気持ちと、己のなかで蠢くべつの気配があった。
——〈雲虹〉を、倒したのか。
ヴィクトルは、うすら寒いものを、倒れるシェイラの横顔に見る。
「——おい、あれを見ろっ!!」
だれが言ったのか。おそらく、近衛か侍従かが叫んだ。
叫んだ先を、全員が見る。
大霧のなかに浮かぶ、巨大な影があった。
大きい。とてつもなく巨大なものだ。
——逆さになった山のようであった。
山であると思ったものが、大きな、いくつもの歯車であると気づいたのは、だれからであっただろうか。
連関し噛み合う歯車が、真鍮の輝きを放ちながら、巨大な影を王都に作って浮遊する。
そうして逆さになった平らな麓からは、生々しい、腕が生えていた。人間の、腕だ。人間の巨人とも言うべき腕が、七本生えている。
その手には、刃物。手術刀、鋏。種別を変えた医療道具を持ち、一本のみが黒い手袋をしていた。
「——俺さまは、戦いにおいては細かい動きが苦手でね。〈目〉は頼んだぞ、メイベ」
黒眼鏡の男だった。宙に{浮遊}し、真鍮の煙管をくわえている。その煙管から、もわもわとした靄が出て、それが僅かながら巨大な手術装置につながっていると気づいたのは、目のよいヴィクトルだけであった。
(この男は、だれだ?)
「——耄碌したのですか、サルオン。その話はもう、何十回と聞いています。老いたわたくしが覚えているのですから、いい加減になさい」
男の問いに答えたのは、横に{浮遊}する老女だ。足から、手から、体全体から、葉脈上の枝のようなものが細かく伸びている。さながら、〈導脈〉が体から広がっているように見えた。細く段々と薄くなっているそれはまるで、蜘蛛の巣の網目で、雨を受けながら、ガルバーンの都全体を覆うように走っていた。
見覚えがある。
あの女は……
「メイベ・ガザン……」
ヴィクトルは驚きで名前をつぶやいた。
およそ聞こえるはずのないつぶやきの声であったはずなのに、白髪を結わえて頭に縄文を描くようにしている女老師は、楽しそうに笑顔で振り向いた。
「あら、坊や。お久しぶり。少し、大きくなりましたね」
背筋がよいからなのか、少女のような笑顔がよく似合う。不思議な老師であった。
「すぐに片づけるから、お待ちなさい。シェイラは大丈夫。治療は必要だけれどね」
先にこちらを片づけます、そう言ってメイベ・ガザンと黒眼鏡の男は、あとに残る蟲を蟻のように屠っていった。
一体、〈蒼鷹〉が飛翔してたが、まるで小鳥でもつかまえるかのようであった。黒手袋の巨腕に捕まえられ、あとは無惨に解体された。霧に返すのではなく、解体。その蟲を霧に返してしまうのはもったいないとわかる動きだった。
「仕方ねえ、街も{修繕}しておくか」
蟲を片付けると男は、煙管を燻らせる。そうすると、巨大な歯車が動き出し、光を輝かせた。六本の巨大な手から手術道具が消え、すべて黒手袋を身につけた姿に成り代わっていた。
歯車はまた動きながら、七本の腕が指揮者のようにふるう。
蟲の襲来で被害を受けたガルバーンの都は、次第にもとの美しい都の形に戻っていった。
「わたくしの務めは終わりよ」
メイベ・ガザンは、裙衣の裾を、ぱんぱんっと払うようにしてから、ヴィクトルたちのそばに着地した。広がっていた蜘蛛の巣が、しゅるしゅるっと折りたたまれるように体のなかに入り込む。
ガザンは、ぬかるみに倒れるシェイラを覗く。
「シェイラは! シェイラは、どうなりますか?」
イディオンが涙に濡れた顔で詰問するのに対して、ガザンは優雅な笑みを描いた。
「あら、はじめまして。あなたがグシェアの子イディオンね。シェイラは役に立った?」
「どうなるのですか! シェイラはいったい!」
恐慌とも言える様子のイディオンに、ガザンはあやすように言う。
「大丈夫よ。少なくとも、今は。だから、安心なさい。そのために、わたくしたちが来たの。サルオンは優秀な医療魔導師だから、たとえ四肢がバラバラになっていたとしても、もとに戻してあげられるわ」
今は、という言葉が、ヴィクトルは気になった。
それはおそらくイディオンも同じだろう。過呼吸気味に繰り返される。
「ですが……ですが、シェイラは……シェイラは……」
「シェイラと仲よくなれたのね。よかった。送り出した甲斐があった。グシェアから話を聞いた時、あなたとシェイラなら、きっと仲よくなれると思ったのよ。ほんとうによかった。この子がこれだけがんばったのも、きっとあなたのためね」
老師がやわらかにイディオンに笑めば、幼い顔はしゃくりをあげながら、涙をこぼしはじめた。恐慌から力がゆるんだように、泣きはじめる。
「ありがとう。シェイラを心配してくれて。お詫びに、秘密の話をしてあげましょう。この子が寝ているうちにこっそり、ね」
メイベ・ガザンは唇に指を一本立てて言った。緋色の目は弧を描いていて、さきほどど同じように笑みを浮かべていたが、その瞳は決して笑っていなかった。
緋色の視線は、泣きつづけるイディオン、そして、ヴィクトルにも向けられる。
ヴィクトルは目を逸らさなかった。
「まずは治療をしないとね。どこか空いている部屋を案内してくれる? この子を運び入れなければいけないから」
「……うん」
イディオンは興奮状態が収まったのか、立ち上がると、近衛に命じて、シェイラの体とメイベ・ガザンを宮城の空き部屋に案内した。




