130話:{分岐点}
「——どういうことか、説明していただきましょう」
ロゼイユ公は、離宮に用意された、ヴィクトルの滞在する部屋を訪れた。深更とも呼べる頃合いだった。
部屋には、ヴィクトルとロゼイユ公のみ。
予測できていたので、ヴィクトルは就寝の準備はせずにいた。そうして、やはり男は来た。深く溜息が漏れ出るようであった。
「多くを話すには及ばない。偶然に会った。それだけだ」
淡然と答える。
「偶然とは?」
「イディオン王子と狩りをしていた。狩り中に〈姑悪〉に襲われ、王子がさらわれた。それを追いかけたら、彼女がいた。それだけだ」
「……それを信じられると?」
「では、王子にでも聞くがいい。事実だ。彼女とはたいした言葉も交わしていない」
そうする前に、彼女はいなくなってしまった。機会などなかった。
再会できたことだけが、奇跡に近かった。
葡萄色の長外套を羽織った彼女と。
あれを贈った時の笑顔が、眼球の奥に思い出されて、そのまま消えずにいる。
「そこまでおっしゃるのであれば、信じましょう」
ロゼイユ公は表情を変えることなく、そう言った。
(この男に……)
情というものはないのだろうか。
いや、ないわけではないのであろう。
——ベイドル・ロゼイユ。
この男が、シェイラを引き取ったのは、貴族位を継ぐ子がいなかったという理由ではない。当時、子のいない男には、すでに次代を継ぐ甥がいて、シェイラを引き取る理由はなかったのだ。
行方不明となっていた公の恋人。その娘。忘れ形見。
それが彼女——シェイラータだった。
出会いはヴィクトルが八歳になったばかりの頃であった。
エシア砂金を散りばめたような、蒼。
彼女とはじめて会った時、結晶魔術の貴石が埋め込まれているのかと思った。
「ヴィクトル、この娘が今日からあなたの婚約者となる娘よ」
「——シェイラータ・ロゼイユと申します、ヴィクトル殿下」
母妃から紹介を受け、礼を取る彼女が、なんと白々しかったことか。
(この娘は、この婚約に納得いっていないのだな)
平然とした表情から、ヴィクトルは読み取る。内心で苦笑が浮かぶ。
「はじめまして、シェイラータ。ヴィクトル・オルリアです。
——これから、あなたと育める日々が楽しみです」
ヴィクトルがにこやかに手を差し出せば、その手をしげしげと見つめられる。
「よろしく……お願いいたします」
同じ手が差し出される。
婚約者を導くのもまた、王子の役目。聖王家の責務。
ヴィクトルは、その手を強く取って握った。
「よろしく」
——それが、ヴィクトルの第一の{分岐点}。
{始点}は現世に生を受けた瞬間であった。有力大貴族の母の胎盤を通して、聖王たる父から、連綿たる魔導師オルリアの血統と〈導脈〉を継いだのが、ヴィクトルのはじまり。
シェイラとの出会いが、{分岐点}のはじまりだった。
シェイラータという少女は、いつもとてもつまらなそうだった。
ぶすっとしている、とまではいかない。無表情。感情が読み取れない。
正直なところ、ヴィクトルはシェイラと過ごすのが気づまりだった。反応が薄いから、話が盛り上がらない。興味関心が薄い。いつも、どことも言えないところを見ている。
ロゼイユ家に移ってきてから礼儀作法が叩き込まれているのか、きれいな所作をこなす。けれど、表情がないので、色のない陶磁器人形を見ているような気分になった。
婚約者。ヴィクトルが大事にして、寄り添わなければならないもの。王族の責務。前借りの代償としての、責務。
気づまりに感じながらも、ヴィクトルは当然するべきものとして、シェイラに接した。ただの責務の関係でしかなかった。
ふたりのあいだに少しだけ変化があったのは、たまたまヴィクトルが魔法を使うところを見せたことがきっかけだった。
話題に事欠いて、思いついただけだった。
「最近、習ったんだよ」
言って、ヴィクトルは水の元素魔術の初歩である、球体を作ってみせた。回転する水の球体。
これに、シェイラが飛びついたのだ。
「す、すごいです……! これが魔法ですか?」
「そ、そうだよ」
あまりにも前のめりに覗き込んでくるので、ヴィクトルは引いてしまった。
手の平のうえを回転するさまを、シェイラは声をあげながら見る。まるで、宝石でも見たような表情だった。
「これを習うことができるんですね!」
「うん。基礎を習い終えたら」
「すごいです。旅していた頃は見ることがなかったので」
「見るのはじめて?」
「はい、はじめてです!」
すごいすごい、とシェイラは青金石を輝かせる。
(こんな顔もできるのか)
——かわいいな。
素直に、ヴィクトルがはじめてシェイラに抱いた感情だった。
もったいない、とこの時、ヴィクトルは思った。
魔法にだけ興味を示すのはもったいない。もっと、いろいろなものに興味を持って、その表情を出せばいいのに。
最初はただ、そう思っただけだった。
たぶん、自分たちの恋は鍾乳石のようなもので、長い時間をかけて、ゆっくりゆっくりと培われ、伸びていったものだった。上からなのか、下からなのか、つらら石と石筍が、とけていくように伸びていって、互いにどうしようもなく惹かれ合った。
そういう種別のものだった。
ある時、言われた言葉を、覚えている。
四阿で待ち合わせていた時だ。彼女は先に待っていて、しゃがんで近くのオダマキの花を見ていた。赤と白い花が、そよそよとあたたかくなりつつあった春風に揺れていた。
ヴィクトルは遅れてきたから、呼吸を整えて「お待たせ」と言った。言いながら、直前にあったできごとが苦く残っていた。
オルリア聖教の貴族派たち。彼らは、将来、聖王を継ぐヴィクトルに、今のうちから媚びを売っておこうと、必死だった。まだ十にしかならないヴィクトルに、大人がへつらう姿は醜かった。そういうものに巻き込まれるのは、責務だと思ってもうんざりだった。
嘆息が出そうになって、呑み込む。切り替えようと思いながら、シェイラの背に声をかけた。
ちらっと、ヴィクトルを見た彼女が、花に視線を戻して、言う。
「わたしの前では、べつにいい人じゃなくていいんですよ?」
「え?」
ヴィクトルは、はじめ、なにを言われているのかわかっていなかった。
その様子に、シェイラのほうは、少し口をすぼめる。
「……だから、べつに無理しなくていいです」
「……無理していないよ?」
苦みが、出ていただろうか。
「じゃあ、なんで」
シェイラは、小さく不満そうに言う。
「なんで……そんなに肩に力が入ってるんですか」
シェイラを、見る。
「見れば、わかります。……無理やり、息を吸って、気持ちを切り替えようとしているんです。息を吸うと、体に力が入るんです」
「…………」
「そういう気持ち……わかりますから。わたし、見ているから、わかるんです」
よく、見ている。
いつの間に、見られるようになったんだろう。
——私を。
ヴィクトルは、その時、なにも言えなかった。
そうやって、夜明け前の瑠璃色が、暁の空に変容していくように、ゆっくり、ゆっくりと変わっていった。
その反面、シェイラの魔法への興味と貪欲さは、急速に伸びていくものであった。
シェイラはいつも魔法の話をすると楽しそうで、それに打ち込む姿は、眩しく輝いていた。はやく使えるようになりたい、とどんどん魔法の理論にのめりこんでいった。
その様子は目覚ましいものがある一方で、どこか強迫的で、なにかに追い立てられているようにも見えて、ヴィクトルは婚約者として、少し心配だった。
〈導脈〉が欠損しているとわかり、リマス準師に師事をするようになってから、ますます強迫さは増していった。
第二の{分岐点}は、数百年ぶりに、ヴィクトルが聖剣に選ばれたことだった。
聖女の存在。シェイラの翳る横顔。たしかに、隣を走っていたはずの運命が、{分岐点}を起点として、折れ曲がっていく。ヴィクトルの不安は、増大していった。
そして、その不安が結実したように、第三の{分岐点}となるできごとが起きた。
——シェイラが、あと戻りのできない事故を起こしたのだった。




