124話:秋宵の静寂
渓谷を調べていたら、遅くなってしまった。
夜気に、吐息が交じる。まだ白くはなかったけれど、秋の深まりはシェイラの頬を冷やす。
翅のまま、シェイラは下降するようにして、王城のなかに降り立った。途中の突き抜けるような抵抗は難なく無効化し、特になにかが起きることもなく、第一王子宮の近くに着地する。
夜勤の近衛に挨拶をし、扉を開けてもらう。侍女もまた不寝番に代わっていて、シェイラは遠慮がちになかへの入室許可を求めた。
「もし、イディオン殿下がすでにご就寝の準備をされているか、お眠りなようでしたら、また明後日参ります」
今日は風ノ日だったから、静寂ノ日の次は福音ノ日だ。
怪我を負っていたので、無理はさせたくなかった。
けれど、シェイラの定まった気持ちは、イディオンに話せることは話してしまいたいと言っている。なんとなく、イディオンのほうも待っているのではないかと思った。
取り次ぎの侍女は、間もなくしてシェイラにイディオンの許可を伝える。
「どうぞ寝室へ、とのことです」
それは、いいのであろうか。
むしろ、シェイラのほうが遠慮したい気持ちになる。
どうぞ、と促されて寝室の戸を叩かれてしまうと、腹をくくるしかなかった。控えめに扉から顔を出す。
「おかえり、シェイラ。……そこにかけて」
イディオンは寝台のうえで上体を起こしていた。今にも寝そうな姿で、シェイラはやはり邪魔をしてしまったのではないかと考える。
「すみません、イディさん。お疲れですよね? 日をあらためますので、今晩はよくお眠りになってください」
「いや、待っていたから」
「ですが……」
「来なくても、待っていたし……それにきっと、今日は眠れなかった。疲労はあるのに、体がどこか興奮していて」
蟲に襲われたせいだろう。体が過緊張を起こしているのだ。
心配だったので、シェイラはいそいそと入室する。
勧められた壁窪窓の座面に腰かける。応接間と同じ作りになっていた。窓部分の面積は少し狭かったけれど、秋月の輝きが澄んだ夜気を含んで、寝室を白銀に染め抜いていた。照らされるイディオンも、いつものように絵のようだった。
「今日は、なんで来てくれたの?」
入室するシェイラを認めると、イディオンは侍女に茶を命じてから、そう尋ねた。
シェイラはきょとんとして、それからもとの目的を思い出した。
「イディさんを、びっくりさせようと思いまして」
「びっくりって、なに」
想像していない返事だったのか、イディオンが当惑を浮かべる。
「来ないと思ってた人が来るとびっくりしませんか?」
「そりゃあするけど……実際にしたけど……」
「少し相談に乗ってもらいまして」
「相談?」
「そうです。今日行っている学園の子に」
ユートの顔を思い出して、シェイラは笑う。
「びっくりするし、うれしいって。来てくれたらすごくうれしいって、その子が教えてくれたんです。だから、来ました」
「…………」
「うれしかったですか?」
わたしが来て、とシェイラが問うと、イディオンは恥ずかしい時いつもそうするように俯いてしまった。
照れているのだな、とさすがにシェイラも学んでいる。
「……うれしいに決まっている」
ぽつっと返ってくる。
「それはよかったです!」
ユートに報告しよう。そして、スズムシ競争をがんばろう、とシェイラは思う。
イディオンは照れた顔のまま、少しだけ不満そうに漏らす。
「ただ……」
「はい?」
「狩りの場を見てもらいたかった……」
ぼろぼろになっているところではなく。
イディオンの言葉に、シェイラは明るく返す。
「今日のは運が悪かっただけですよ」
「うん……」
銀色の髪は下ろされているので、しょぼくれる顔が見えなくなってしまう。
「では、今度見せてください」
「今度っていつ?」
イディオンは、じろっとシェイラを見る。
「いつでしょうね?」
「適当なことを言わないでくれ」
「いえ、見たい気持ちはありますので」
「……期限があるくせに」
イディオンがぼそっと悪態をつく。
シェイラは、それにはへらりと笑って誤魔化した。わかっているのであれば、言葉を重ねる必要はないからだ。
そうして、侍女によって茶が差し入れられると、シェイラはまたべつの話題を口にした。グシェアネスや弟ムディアンとのやり取りだ。今日の様子から、一月ほど前に聞いた家族とのぎこちなさは感じ得なかった。それを口にすると、
「シェイラのおかげだよ」
イディオンはそう応えた。グシェアネスとも、ムディアンとも話す機会があったのだという。
(それはよかったです)
ひとつ、自分の務めを果たせた気がして、肩の荷が下りるようだった。
香草茶で喉を潤してから、シェイラは本題を切り出す。
「今日は、ありがとうございました」
眠りをさまたげない香る茶だった。口にすると、アメリ草とは異なる、あたたかなやさしい花の香りがする。
「わたしをかばってくださって、ありがとうございました」
あの時、イディオンから得たものを、シェイラはなんと言えばよいのかわからない。
罪人であるということは事実であって、父公や枢機卿の言葉はまちがってなどいないのに、どことなく、シェイラが抱いた虚しさを拾い上げてもらった気がしていた。
イディオンの目を見て感謝を口にすれば、真っ直ぐな縹色はなんのてらいもなく返答をする。
「当然のことをした」
「はい」
「それだけだ」
「はい、それがとてもありがたくて……だから……」
ああ、とシェイラは目を逸らして、月影に思う。
ずっと自分は、疲れた心を持て余していたのだ。だれにも、自分の思いや行動を理解してもらえないであろう、と思いつづけて。
今日話に来てしまおうと思ったのも、きっとそのせいだった。
瞑想を身につけて、心の保ち方を学んだはずなのに。
ずっと疲れていたから、吐露してしまいたくなったのであろう。
「約束を果たしに来ました」
「……うん、待っていた」
イディオンは、やさしく肯く。
「ほんとうは、一ヶ月も前に話す約束でしたのに」
「気にしていない」
「……眠れないようでしたら、わたしの……愚かな話に付き合っていただけますか」
「ああ」
イディオンは肯定する。
「あなたの話を聞きたい」
シェイラは、どこまでもやさしい中低音に微笑する。
それから、自分の過去を秋宵のしじまに語り聞かせるように、紡ぎはじめた。




