122話:蝶と蛾
「なぜ、あのような真似を」
一方のシェイラは憤っていた。
ヴィクトルは、彼女がなにに怒っているのかわからなかった。
「……君は」
ただ思ったことを漏らす。
「蝶だ」
「……よく言われます」
シェイラが憤ったまま返答する。
なにを言うのだと憤懣さを隠していなかった。
そういうところは、変わっていなかった。
「とても、きれいな……蝶だよ」
「……ありがとうございます」
少し照れたように目を逸らす。
そういうところも、変わっていなかった。
「あまりにも美しい蝶だ」
言えば、ぱっと顔が赤くなった。
なにも変わらない反応だった。たしかに変わらぬものもあるのだと、感じ入るものがあった。深い淵を、慰撫するようであった。
「——ちがうよ」
その場に、高い声音が響いた。ブナの巨木に反響するような声だった。
「蛾だよ」
{防護}の陣が消えた先の、イディオン王子が、ヴィクトルを捉えていた。
「シェイラのそれは、蛾だよ」
〜*〜
(蛾って、ひどくありませんか)
シェイラは、ぽかんとイディオンを見た。
怒りと恥ずかしくてたまらなかった気持ちが、あっという間にどこかに消え失せる。
「あの……イディさん、怒ってますか?」
柳弦の高音が、ぴんと張っているように聞こえた。
ひとり、{防護}結界のなかに置いてしまったからだろうか。
さっき、待っていると言ってくれていたのに、怒る理由がよくわからなかった。
「……べつに」
イディオンはシェイラのほうを見なかった。
会ったばかりのぶっきらぼうな様子を思い出す。
「蛾も、はじめて言われました……」
シェイラがつぶやくと、イディオンはそれには反応した。食い入るようにシェイラを見る。
「も、って?」
「他にもべつの形容を」
「他には?」
「ゴキブリ、ですかね……よく妖精とか蝶は言われるんですよ」
「……ゴキブリはひどくないか」
聞いたイディオンは、毒気を抜かれたような表情をした。
ゴキブリと称したのは、もちろんユートなのだが、あれの意味をあとから聞いたら、
「だって、ゴキブリってすげえかっこいいじゃん! シェイラ師かっこよかったからさ!」
明るく言われてしまった。
ユートにとっては褒め言葉だったらしく、とてもほほ笑ましい気持ちになった。
(イディさんにとっての蛾ってどういう意味でしょうか……)
知りたいような、知りたくないような。
シェイラは毒々しすぎてあまり好きではなかったので、聞くとなんだか後悔してしまう気がする。
「……ちなみに蛾って褒め言葉ですか?」
念のため、シェイラが尋ねると、イディオンは今度はぷいっと顔を背けてしまった。
ほんとうに出会った頃に戻ってしまったようだった。
「さあ」
「さあって……」
「べつに、意味はないよ。見て感じたままを言っただけ」
「はあ……」
今度は、シェイラのほうが毒気を抜かれてしまった。
ヴィクトルと再会した動揺、気づいてしまったこと、怒り、感じていたものがすべて流れ落ちてしまったようだった。
そうして、現状を思い出す。
イディオンの治療をしてもらわなければいけない。
「……狩猟祭の幕屋はどちらになりますか? イディさんの傷を治さねば」
シェイラが尋ねると、ずっと無言だったヴィクトルが答える。
「こっちだ」
「わかりました。では、イディさんを抱えなければいけませんね。{転移}を使えばすぐですけれども」
「私が背負おう」
シェイラの提案に、ヴィクトルが肯く。
「いやだ」
拒否をしたのは、イディオンだった。
シェイラはびっくりする。
「イディさん、ちょっとのあいだなので、そこは我慢していただきたく——」
「シェイラがいい」
「……はい?」
どうしたんだ、いったい。
「シェイラ、さっきみたいにぼくを運んで」
「さっきみたいに?」
「そう。さっきみたいに」
「抱っこしていいってことですか?」
「そう」
意味がわからない。
いつも、十六歳だ、慎みを持てと言っているのは、イディオンのほうではないか。
全然、理解できなかった。
(怪我をして、少し気持ちが弱っているのでしょうか)
きっと、そうなのだろう。
それもけっこう危なかった。急死に一生の経験だ。そういう経験というのは、心ノ理学で言うと、恐慌による緊張、恐怖や不安などがやってくる。
きっと今不安なのだろう。背負われるより、抱きしめてもらえるほうが安心するのだろうか。そうかもしれない。
(理解できました)
シェイラは結論づけて、役得に少しだけうれしくなる。しゃがむとイディオンの背に腕を回した。イディオンも大人しくシェイラの背に腕を回す。
「……ヒバリに{治癒}してもらおう」
向けた背に、ヴィクトルのそんな声がかかった。
シェイラは、はっとして、それから強い哀感が、泉からのぼってくるように満ちていった。
無意識に、イディオンを抱く背に力が入る。
そうすると、イディオンからも強い力を返された。
「……{転移}しましょう」
今はただ、胸のぬくもりと雪原のにおいだけがありがたかった。




