121話:再会と共闘
——イディオン王子が、いない。
瞬間、ヴィクトルは地面を蹴った。
事態を理解把握し、走りながら近くにいる者たちに命じる。
「——蟲だ! 迅速に動け!」
護衛官たちが動くのがわかった。ヴィクトルの命令になにをすればよいのか、戦場を知る者たちは即座に行動する。
ヴィクトルは、足に{疾速}を描いた。{移動}と{強化}を組み合わせた応用術式。
(どこだ)
走る。森を進む。
霧が驚くほどの速度で充満してきた。嗅覚が、たまごの腐乱したあまいにおいに嫌悪を覚える。
(なにが起きた)
考えながら、イディオンの姿を探す。
「{聖剣}」
走りながら、湧いてきた〈這虫〉〈蠕虫〉を切り捨てた。
飛行する蟲だ。森のなかでは埒が明かない。
〈導脈〉の力を聖剣に込める。そうすると、剣を持っていない時よりも驚くほどなめらかに魔力が構築されるのがわかる。
憎しみとともにその魔力で、足に{跳躍}を施し、地面を強く蹴った。
ぐんっ、と森を抜ける。上空へと風を切って、体が持ち上がる。
そのまま、{浮遊}と、それから大地と風の応用魔術を練り上げる。
足元に地面があるような、感覚を得た。
{疾速}のまま、走り出す。
ヴィクトルは、視認する。
——〈姑悪〉か。
悪趣味な鳥が、遠目にイディオンの体を抱えているのがわかった。
(いけるか)
聖剣を構える。風刃で、あの鳥をここから切れるか。
だがもし、少しでも〈姑悪〉が向きを変えれば、イディオンに当たってしまう。
ヴィクトルは悩んで、もう少し距離を縮めることを選んだ。速度をさらに上げようとして、それを見た。
「なんだ?」
——薄紫の、蝶。
それが、〈姑悪〉と交戦する。そして、あざやかに打ち破られた。
(魔導師か)
大した力量だ。ヴィクトルは驚嘆する。
〈姑悪〉は並の蟲ではない。飛行するうえに、はやい。そして、鳥類を模した蟲はどれも凶暴で、一瞬の判断の過ちが命取りになる。
霧となって消えていく姿と、蝶がイディオンを抱えて下降する姿を足早にだんだんと詳細に捉えていく。
そうして、認識した。
愕然と、足が止まる。
(まさか)
葡萄色の、長外套がはためいていた。イディオンを案ずる横顔。その横顔は自分が見知っているよりも、ずっと大人になっていた。
愕然と、手に持っていた聖剣を落とす。剣が、粒子となって消えていく。
時間にすれば、数秒だった。
ヴィクトルは、事実が知りたくて、気づけばイディオンの気配を軸に、{転移}していた。
そして、見た。
たしかに、そこに彼女を——シェイラを認めた。
シェイラは、呆然とヴィクトルを見つめる。
ヴィクトルもまた、シェイラを呆然と見た。
(きれいに、なった)
ヴィクトルは、まずそう思った。
顔はイディオンの血が付着していたが、その顔に少女のようなあどけなさはもう残っていなかった。
最後に会ったのは彼女が十五になったばかりの頃。もうあれから、三年半も経つ。彼女はもう、立派な女性だった。
それがヴィクトルには虚しく映った。
さまざまに思っていたはずなのに、ただその美しさが、三年半を埋められないものとして、線画で際立って描いているように見えた。
であるのに。
(まだ君は……)
その長外套を、まとっていたのか。
腹の底から迫ってくるものを、なんと言えばいいのか。
ただ、迫ってくるままに右手を左手首に動かす。昔、彼女からもった腕環を、かたい親指の腹でなでた。
そうすると、シェイラの視線もヴィクトルの左手首に移ろった。
きれいな顔が、はっとする。
視線が、交わった。
——互いが、互いのことを、今もどう思っているのか、気づいてしまった瞬間だった。
重たい沈黙が、充満する雲霞のように渦紋を描く。
「……なにが、起きましたか」
うち払ったのは、伏していたイディオン王子だった。腹を抱えながら、上体を起こす。
「イディさん、いけません」
交わった視線が途切れた。
シェイラが、イディオン王子に思案の色を向ける。
「なにが起きましたか、ヴィクトル王太子」
「……蟲だ」
ヴィクトルは思考が止まっていて、王子の問いにそれしか返答できなかった。
「霧です」
シェイラが、ヴィクトルの言葉を補足する。
「上から見ていましたが、突然渓谷の割れ目から霧が噴き出してきました」
「ばかな」
シェイラの言葉に、イディオンが言う。
「ほんとうです」
「{霧除け}をしている」
「はい。ですが——」
瞬間、地の底から突き上げるような音と揺れが、シェイラの言葉をかき消した。揺れで平衡を失うイディオンの体を、シェイラが咄嗟に抱きとめる。
「なんですか?」
シェイラが声をあげる。
ヴィクトルもまた驚く。上空を、すさまじい量の鳥や虫たちが飛び立っていく。
「……母上だ」
シェイラとヴィクトルの驚きに答えたのは、溜息をついたイディオンの声だった。
「女王陛下?」
ヴィクトルの問いに、イディオンは肯く。
「母上は、自分が力を振るったほうがはやいと思えば、その力を出し惜しみしない。おそらく、そのへん一体に湧いた蟲を一斉にどうにかしたのだと思います」
「聞く話よりもすさまじいな」
「渓谷の景観を壊さないといいのですが……」
イディオンがもう一度溜息をつく。
話しているあいだに、ヴィクトルは自分たちに近づく気配を感じ取った。
瞬時にヴィクトルは鍛え抜かれた神経が高ぶるのがわかった。聖剣を現出させる。構えて、シェイラとイディオンに背を向けた。
「君たちは後ろで——」
「いえ、わたしも」
シェイラが、ヴィクトルの隣に立つ。
青金色の瞳が、哀しげに向けられた。
「わたしも、あなたと一緒に戦います、トール」
言ってシェイラは後ろを向くと、{防護}と思しき陣をイディオンを囲むようにして張った。
紫と銀の見たことのない陣だ。雪の結晶のようだった。
「イディさん、すみません、少しお待ちを」
「大丈夫。待っている」
ヴィクトルが絶句していると、シェイラの視線は、近づく気配に向けられる。
——〈避役〉と呼ばれる蟲だ。
一馬身ほどある。カエルのような足と膨らむ顎を持つ。〈猿猴〉以上の跳躍力があり、目がぎょろぎょろしている。
それが数体、周囲に近づいていた。
ヴィクトルの動揺は、歴戦の経験で覆われる。
柄を握り込む。右足を後ろにやる。左足に力を入れる。そして、爪先を蹴った。ぐんっと力のままに、{疾速}を描く。
(跳ばれるよりも先に)
薙ぐ。
一体目を、飛び出る目玉を横に一閃。次いで二体目は首を切断。三体目は、跳躍しようとした腹に滑り込んで腹を突く。
(逃した……っ!)
近くの二体が、上空に跳ぶ。
けれど、そこには彼女がいた。薄紫の蝶の翅を開いて、残酷な目をしていた。
「——これは、わたしが」
シェイラが、腕を一振り、払った。
そうすると、描かれた石と火でできた矢が跳んだ二体に降り注ぐ。ずぶずぶと体を貫いていきながら、霧散する。
ヴィクトルは驚くより先に、さらに向かってきた三体を斬撃のうちに、霧に帰していた。
残り、四体。
「トール!」
シェイラの声に、背後の一体に気がつく。
(五体だったか)
間に合わない。
だが、ヴィクトルは怪我には慣れている。死にはしない。傷は、治せばいい。
そうやって、ヴィクトルは倦みきったものを発散してきた。傷を受けると、痛みから現実を感じられることができた。
受け身を取らずに、真向かいの四体に対応するヴィクトルに、目を見開いたのはシェイラだった。
上空から、ヴィクトルの背後に氷壁を描く。一撃目を防ぎ、二撃目前に、〈避役〉の腹に鋭い氷柱を叩き落とした。雲散する。
ヴィクトルは四体を片づけ、あたりにはねっとりとした霧のあまいにおいが満ちていた。
シェイラがそれを、風を起こして散布させた。
薄紫の蝶が、空から優雅に舞い降りる。爪先が、花に降り立つように地面にふれる。
ヴィクトルは、それを見つめながら、三年半を想った。




