117話:狩猟(2)
「そんなのではありません」
どんなのだ。待っていると、イディオンはつぶやくように言う。
「あの人は、私の……師みたいな人です」
「師みたいな?」
「……いろいろ教えに。私の問題を真摯に向き合ってくれる、すごい人です」
「そうか」
イディオン王子にとって、得がたい師なのだろう。
からかって悪い気持ちになる。
「すまない。師に対して変な気持ちにさせたな」
ヴィクトルが言えば、イディオンはヴィクトルを見上げた。
束の間ののち、返答がある。
「……女性ではあります」
「ほう?」
それは興味深い。いくつだろうか。
またヴィクトルは悪戯心が沸いてくるが、さっきの反省があるので黙っておく。
「……変な人でもあります」
「変な人?」
「なんというか……無遠慮というか距離感をわきまえないというか、変なところが一方的というか……」
ああ、なるほど。
ヴィクトルは理解する。
複雑な年頃なのに、べたべたさわってくるのだろう。そういう女は、意図的でも無意識でもいる。好きでもない女であれば、いい迷惑だ。
「悪女だな」
「……悪女ではありません。いい人です。信じられないくらいに」
「そうか。それは……複雑だな」
「複雑です」
「でも、いい人」
「いい人です。少し心配になるくらいには」
王子は師のことを思い出しているのだろう。赤みは落ち着いて、ほがらかな表情をしていた。
「なにか心配なことがあるのか?」
「……心配というか、人のために自分の全部を擲ってしまうような危うさがあります」
「なるほど」
たしかに、それは心配になる。
「ぼくは……」
イディオンの表情から、ヴィクトルに相対する面のようなもの落ちる。
「あの人に感謝しています。恩とも、いえ、それ以上のものをもらいました」
「そうか」
「——ありのままでいい、と言ってもらったんです」
イディオンは言う。
その言葉は、ヴィクトルもかけたことがある。……決して、伝わることはなかったけれど。
「ありのままでいい、という言葉は、特にぼくにとって珍しい言葉でもなかったんです」
ヴィクトルは不思議な気持ちになってイディオンを見る。
王子の表情は自嘲的だった。
「数多く、言われました。ぼくは魔法が……使えなかったんですが、使えなくてもいい、そのままでもいい十分だ、と言われてきました。できそこない、と言われるのと同じくらいには」
ヴィクトルは聞きながら、内心で驚きを覚える。本人が語ってくるとは思っていなかった。
「ですが、その言葉は……、ぼくを認めているようで、ぼくの、魔法が使えるようになりたいという気持ちを、まったく無視した否定でした」
イディオンの言葉に、ヴィクトルは、はっとする。槍を受けて、痛みが瞬時に広がるようだった。
対するイディオンは、次の瞬間には晴れやかな、ちょうどトビが舞う空のような表情であった。
「それを、あの人は認めてくれました」
「…………」
「魔法が使えるようになりたいという気持ちと、ぼくがあがいてきたすべてを丸ごと、包み込むように、ありのままでいい、と言ってくれました。ぼくが忘れていたことも拾いあげてくれて、一緒にやっていこう、と」
イディオンは一拍置く。
「感謝してもしきれません」
「……そうか」
「野ウサギ一匹では、全然足りないです」
「……そうだな」
「だからぼくは今まで以上に努力して、あの人にこの気持ちを返したいです。今度はぼくが、あの人の危うさをどうにかしてあげたい」
衝撃は、幾分鎮まっていた。代わりに、悔悟の念が高まる。
(そう……だったのか)
ヴィクトルのなかで、イディオンの気持ちを聞いてわかったことは、悔やんだものを濃くした。
(ラータ、君は……)
魔法が使えるようになりたい、という気持ちごと受け止めてほしかったのか。
だから、いつも、どこか浮かない顔をしていたのだ、とヴィクトルは悟った。
使えないままでもいい、という言葉が、彼女を傷つけていたかもしれない。
思い至ると、また新たな苦渋を覚える。悔やんでも悔やみきれないものが深まる。もう取り戻せないものが、また色を濃くする。
一方で、また思うのだ。
(それほどまでして……)
——なぜ、魔法を得たかったのだろう。
その疑問は、解消しないままだった。
「いい師と出会ったな」
自分の後悔も乗せながら、ヴィクトルはイディオンにそう声をかける。
イディオンは秋空の、いい顔をしていた。
「はい」
「まずは、ウサギを喜んでくれるといいな」
その言葉に、イディオンはいささか表情を曇らせた。げんなりしているようにも見える。
「ただあの人……」
「ん?」
「すごい……偏食なんですよね」
「ああ……」
ヴィクトルのなかにもひとりだけ思い当たる人物がいる。
たしかに、偏食だけはとても困った。
「……ウサギ食べてくれますかね」
「偏食だと……どうだろうな」
「無理ですかね」
「無理かもしれない」
「……そうですよね」
「毛皮のほうで、感謝は伝わるさ」
ヴィクトルがそう言えば、イディオンは少しだけ表情をよくした。
ふたりで森を歩きながら、次にヴィクトルが杏ギツネを、王子が朱ガモを射た。陽は中空を越えて、午後に傾いていた。
勢子や護衛なども近隣をうろついていたが、ヴィクトルとイディオンに配慮して、目に見える範囲はいなかった。
「昼餉にしようか」
そうヴィクトルがイディオンに提案した時、ばさっ、という大きな羽音がした。
近く、はやい。
ばさっ、というもう一度大きく羽ばたく音。
音とともに、ヴィクトルとイディオンのあいだを陣風が吹き抜けた。目も開けられない風が吹き抜けていく。
——かすかな香り。霧のにおい。
まぶたを開ける。たしかめた。
「王子?」
イディオンが、いなかった。




