115話:忘れえぬ日
いつもどおり朝からやって来たシェイラに、イディオンもいつもどおり迎えてくれた。先日の照れていた王子さまはもう見られないようだった。残念だが、仕方ない。
まずは、先週調べたことや、わかったことも含めて、整理するところからはじめた。
急がなくていい、と言われたわけなので、シェイラとイディオンのあいだで共通認識を持つのを目的にする。
「あれから、少し思ったことがある」
口火を切ったのは、イディオンだった。
「なんでしょうか?」
「ラムル師の話を聞いて、そもそもを見直したほうがいいんじゃないかと考えた」
「そもそも?」
「当たり前を疑ってみる」
イディオンの言葉に、シェイラは肯く。
「……そうですね。それはわたしも思っていました」
イディオンの適正はきっと、今組まれている魔法の当たり前ではない、べつのところにある。
それは先週の彼の反応を見ても思ったことだった。
「シェイラはいつもどうやって魔法を使っているの?」
「わたしは……」
言って、シェイラは右手に風の魔術を描く。
初歩の魔術として学園で習う、手のなかに小さなつむじ風を起こすものだ。
「それって、〈導脈〉から風になるまでどういう段階が踏まれているの?」
「……ユベーヌ文字で括り付けているので、ふつうよりは少し工数が多いですけれど、一緒です。詠唱と陣、その先につながる魔法を描く。式を立てて導いていく感じです」
「今……数秒でやってなかった? 詠唱もなかったよね?」
「体が覚えているという感じです。ゼイドさんに近いかもしれないです。〈脈〉から魔力を動かして風を描くことを、体が覚えているんです。式が刻まれているような感じですかね? 覚えているので、詠唱はいりません。……もちろん、大きな魔術を使う場合は必要としますが」
「シェイラって、やっぱりすごいんだ……」
イディオンが驚いたように言う。
「母上も詠唱を破棄する」
「絶対女王と言われてますからね」
「シェイラと母上が戦ったらどっちが強いんだろ」
「それはちょっとわたしも気になってます」
「試してみたいね」
「試してみたいです」
脱線した話題にふたりで笑う。
イディオンは、近くにあった写生帳を上にやったり下にやったりして、ぺらぺらとめくる。
「シェイラみたいな……というのは無理だけど、その体で覚えている自動化されたものをひとつひとつ分解して、当たり前とは異なることをやっていく。そういう流れかな」
「……そうですね」
それは途方もない時間がかかりそうだった。
(間に合うでしょうか)
そんなひとつひとつをやっていって。
「……ぼくは、べつに時間がかかってもかまわないよ」
シェイラが不安に感じていると、イディオンは白紙のところを開いて、角墨でなにかを描きはじめながら言った。
「ぼくの問題が解決しなかったら、母上に、シェイラがノザリアンナの月以降もいられるようにしてほしいって言えばいい」
「ご冗談を」
シェイラは苦笑する。
王子さまだから、ほんとうにやってしまえる権限があるだけにこわい。
(師匠が許さない気もしますが……)
メイベ・ガザンが一年と言っていた。なら、一年だろう。老師であるガザンは唯一、ガルバディアの女王に並び立つ権限を持つ。
イディオンの願いは棄却されるだろう。
シェイラもはやく、ヴェッセンダリアに戻りたかった。
(あれ、でも、わかりませんね……?)
そもそも、この仕事は女王からガザンに依頼されて、仕組まれたものだった。ということは、女王が願えば、ガザンも許諾してしまうのではないだろうか。
けれど、ヴェッセンダリアに戻らなければ、ちっとも進んでいないシェイラの〈魔導呪法〉の研究は止まりっぱなしだ。まだ、いろいろと括り付けたいものがあるのだ。
それは、はやくできるようになりたい。
シェイラが悶々としているあいだに、イディオンは無言のまま、しゃっしゃっとなにかを書き上げた。立ち上がって、横から写生帳を覗き込む。
「これは……エクゥス、ですか?」
話題を変えるために尋ねた。
「……ああ」
しゃっ、とイディオンが一本たてがみを書き終えれば、今にも動き出しそうなエクゥスの完成だった。
ほんとうにすごい才能だ。
シェイラは隣で拍手する。
「イディさんの強みですね」
「べつに、なんの役にも立たないよ」
「それでも強みですよ」
「まあ、人より映像としての記憶力と再現力は高いかもしれないけど」
「でも、ほら、ゼイドさんも言っていたじゃないですか。強みを活かして仕事を——」
シェイラは、その瞬間、ふいに気がついた。
脳裏で、いくつもの事柄やできごとがつながりあう。結ばれる。ひとつひとつが組紐のように編まれて、美しく一本の鮮やかな線ができあがっていく。
(強み……)
表象する力。まるで今見ているかのように。
(心象風景)
〈導脈〉の魔力を食い尽くすほど、風景を再現する力。
(当たり前を疑う)
魔法の基本は、呪文による定義をすること、式を組み立てること。
——あらゆる困りは、本人の強みを活かすことから考える。
それは仕事でも一緒だ。テニアの適性。ゼイドの難しかったこと。
(なら……)
なら、強みを活かして、苦手なことをうち破ることができるのではないか。当たり前ではない方法で。
「シェイラ……?」
突然、言葉を切ったシェイラに、イディオンが怪訝に片眉をあげる。
シェイラは、ぱっと走って、持ってきた革袋のなかをさがす。
(たしか……)
あったはずだ。
小さなファル石。魔力のこもった石が。
「ありました!」
シェイラが水色の小石を見つけると、イディオンはますます不可解な顔になった。
秀麗な顔が、突発すぎて意味がわからない、という。
「イディさん!」
シェイラは、ぱっと笑みを浮かべる。
「魔法が使えるようになるかもしれません!」
「え?」
「思いつきですが、ですが……!」
イディオンから釉薬の発想をもらった時と同じ、閃光のようなひらめきがシェイラのなかには満ちていた。
「手を貸してください!」
シェイラは、許される前にイディオンの右手首をつかむと、その手の平のなかに見つけたファル石を握り込ませる。それからもう片方の利き手を開かせた。
「ここに」
シェイラは左手の平を指し示す。
「わたしが見せるものと同じものを想像してください」
「どういうこと……?」
「見えるように、表象してください」
「表象?」
「そうです。一から組み立てるのではなく、ただそれを想像して表象してください」
なにを、というイディオンに、シェイラは見せる。
自分の右手に、小さなつむじ風を描く。
「この魔法を」
「でも、シェイラ」
魔法は……、とイディオンがためらう。
シェイラは今度はファル石を握り込ませたほうの手に、シェイラの空いている手を重ねる。
「〈導脈〉の力はまたべつに制御して、どうにかしなければいけません。でも、そっちのほうは算段がついています。問題ありません」
「もう、よくわからない……」
どういうこと、とイディオンがあきれたような顔をする。
「今だけ、この石と、それから、わたしがちょっとお手伝いします。それで魔法を使うための魔力は補えます」
「……ぼくは、想像だけすればいいの?」
諦めたようなイディオンの声が尋ねる。
「そうです」
「ここに?」
「そう。左手に、わたしと同じものを」
「ここに、思い浮かぶものを見えるようにする感じ?」
「そんな感じで!」
とにかくやってみましょう、というシェイラの勢いにイディオンは呑まれていた。
「……わかった」
どうとでもなれ、という表情で溜息をつく。
「わたしが、今です、と言ったら表象してくださいね」
シェイラは言って、目を閉じる。
自身の感覚を{拡張}させる。
イディオンの右手の平にあるファル石に重ねる手を通して、石の魔力を、涸れたイディオンの〈導脈〉に流すようにする。せき止めていた石を抜いて、川に流れるように、魔力を運び入れる。
そうしているうちに、ぽうっとあたたかな心地がして、ファル石のなかからイディオンの〈導脈〉に魔力が流れていく。はやく。勢いよく。また吸い込まれるように、滝壺に落っこちていく前に、シェイラはそれを止める。止めて、左手へ。流すようにする。〈導脈〉の感覚を制御するようにしてやる。
そうすると、魔力の流れが変わった。
イディオンの左手へ流れていく。手の平に辿り着く。
「——今です」
そのできごとは、シェイラがそうやって、イディオンの背中を押した一瞬のうちに起きた。
——ほんとうに、またたきのあいだだった。
イディオンの左手の平に、シェイラが見せているものとまったく同じつむじ風ができあがる。
それは数秒で形を崩してしまって、たいした魔法ではなかった。学園の試験を突破できるものでもなかった。
けれど、イディオンも、目を開けたシェイラも、たしかにそれを見た。
形が崩れて、ぱっと離散する時に起きた風は、イディオンがずっとひとりで戦ってきた部屋の、紙という紙を吹雪にして消えていった。
——紙が、舞う。
部屋中に、羊皮紙、仔羊皮紙、ルペドやパムの植物紙、それらが舞う。
「ほら、うまくいったでしょう?」
シェイラが得意げに笑う。導師じゃなくて、ただのシェイラとして。はじめて魔法を目にした時のわくわくとした気持ちで。
イディオンは呆気に取られる。ただ、呆気に取られる。
それから、子どものようにはしゃぐシェイラを見て、やっと笑みが浮かんだ。
——ふたりは、これから何度も思い出す。
この時の感動を。
ふたりで、乗り越えたものを。
忘れられないできごととして。




