110話:試行と焦り(1)
静寂ノ日明けの、福音ノ日。
王子宮への勾配に足を使っていると、秋の深まりを感じた。空気のなかに、紅葉のにおいと静けさ、そして〈魔導霧〉の残り香を感じる。
今朝も鐘の音が聞こえたから、どこかで蟲が出たのであろう。
(そろそろ、秋霞がやってくる)
犠牲が出なければいい、とシェイラは思う。
シェイラのように親を失う子、あるいは子を失う親、そういう深い哀しみが積み上がらないでほしい。
——〈霧蟲〉とはなんであろうか。
この季節になると、いつも頭をよぎる。
蟲を作り上げる霧もまた、なんであろう。
随分と昔、この大陸が大魔導師サージェストによって統一されたばかりの頃は、霧もなく、蟲もいなかったのだという。
霧が出るようになったのは、百年に及ぶ魔導大戦のさなか。通説によれば、大戦によって空気中の魔力濃度が高まったことで、なにかしらの反応が起き、霧が生み出されるようになったという。魔導霧研究の老師は、他の説も研究しているが、シェイラはよく知らない。
大戦で大陸中が疲弊しているなかで、たちこめるようになった霧は、当時の人々を絶望に追いやった。
そこに現れたのが、魔導師オルリアが召喚した聖女。
オルリアと聖女は、この一番はじめの霧を払い、魔導師ガルバーンが、その力で大戦の原因となったノザリアンナ呪了国と、ユベーヌ国を制し、大戦もまた終結を迎えた。
オルリア聖教では、一連の流れを人間の大罪とし、聖女は救済の象徴であると吹聴する。
過去のできごとで語り継がれていることが、どこまでほんとうで、どこまでが作り上げられたものかはわからない。
事実を証明しようとしているものもいるけれど、シェイラのなかでは、今の人々が大事だった。
霧で死ぬ者、大切な人を亡くす者。
蟲との闘いで最前に立つ者、支える者。
立とうと思っていても立てない者。
オーズ師を思い出す。先日聞いた話によれば、あの教師は戦場に立ちたかったが、才がなかったのだという。だから、代わりに教師になった、と。
(そういう生き方も……)
あったのかもしれない。
けれど、シェイラは、その生き方を望んでいなかった。戦場に立ちたかった。なんとしても、魔法が使えるようになりたかった。
『なんのためにそれをするか、じゃないっすか? どうして、それを願うか、じゃないっすか?』
オーズ師は、言っていた。
——なんとしても魔法を得たい。
それがシェイラの願いだった。
(今も空っぽなままです)
理由はもう、失った。失ったまま、ずっと虚ろさのある願いを抱えている。
(イディさんとは……)
ちがう。
魔法が使えないというのは一緒だ。だが、使えるようになりたい理由には、あまりにも差がある。空っぽなシェイラと、民や街を守りたいというイディオンでは、ちがいすぎる。
わかり合ってしまっている、と思っていた。互いになんとなくわかり合ってしまっているところがある。導師と教え子という垣根を越えて。
そう、思っていた。
(全然……ちがいます)
聞けば聞くほど、知れば知るほど、シェイラとイディオンは根があまりにもちがいすぎる。
(あと数ヶ月……)
ただ、純粋に国を想うイディオンの願いを叶えるためにだけ、シェイラはその時間を過ごす。
王子宮に着くと、イディオンは最近定番のきっちりとした装いだった。今日は、浅縹の襯衣で、瞳の色に調和していた。一方で羽織っている中衣は深緑で、秋らしさも感じ得た。
扉をくぐってすぐ、ばちっと視線が合う。
そうすると、ぱっと視線が思いっきり下げられた。
「……おはよう」
「おはようございます」
どうやら、昨日泣いてしまったのが恥ずかしいらしい。うっすらと色白の耳元が染まっている。
(まあ、そうですよね)
難しいお年頃だから、致し方ない。
シェイラのほうがお姉さんで余裕があるのだから、いつもどおり接する。
「今日はいろいろ試そうと思っているので、もしかしたらイディさんにご負担かけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
荷物を下ろしながらシェイラは言う。
革の鞄に書きつけてきたものや、試したいものを詰め込んできたから、けっこう重かった。魔法でぱっと{転移}させてもよかったけれど、王城には障壁が張ってあるので、そこを無理やり通過させると、魔力消費量が上がるのだ。力は温存しておけという変態魔導師の言葉を思い出して、手で運んできた。
シェイラは、象牙色の扉をくぐる。鞄から出したものを空いている場所にどんどん置いていく。
荷物が軽くなるような魔法があれば、便利だなと思う。
「ぼくのことなんだから、なんでもやるよ」
背後にイディオンの気配を感じた。
「……呪文詠唱などをお願いしてもですか?」
恥ずかしい気持ちは去ったらしい。
シェイラがちらっと視線を向けても、問題なかった。
「ああ。必要ならやる」
「わかりました。様子を見ながらやりましょう」




