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水底の囁き

作者: SaeL

彩花は古びたアパートの鍵を握りしめ、薄暗い廊下を歩いた。

地方都市の外れ、雑草に埋もれたこの建物は、都会の喧騒を逃れた彼女にとって最後の選択肢だった。

家賃の安さに惹かれたが、湿った空気とカビ臭い匂いが鼻をつく。

イラストレーターとして独立したばかりの彩花は、静けさを求めていたが、この場所の不気味な雰囲気に落ち着かなかった。


部屋に入ると、剥がれた壁紙や傷だらけのフローリングが目に入った。

窓からは遠くに湖が見え、夕暮れの光が水面を赤く染めていた。

「まあ、慣れるさ」と呟き、彩花は荷物をほどき始めた。

キッチンの蛇口をひねると、ゴポゴポと空気が抜ける音が響き、錆びた臭いの水が流れ出した。

「汚いな……」

彼女は眉をひそめ、蛇口を強く締めた。


その夜、彩花は硬いベッドで浅い眠りに落ちていた。

深夜二時、突然の音で目が覚める。

ポタ、ポタ。キッチンから水滴の音が響く。

時計の針がカチカチと動く中、音は規則的で、まるで誰かが意図的に水を垂らしているようだった。

彩花は起き上がり、暗闇の中をキッチンへ向かった。

蛇口は閉まっている。

なのに、シンクに小さな水たまりができていた。

ポタ、ポタ。音は止まない。


「何これ……」

彩花は蛇口をさらに締めた。

音が一瞬途切れるが、すぐに再開する。

そして、かすかな囁き声が水道管の奥から響いた。

「助けて……」

細く、湿った声。

彩花の背筋が凍り、慌てて電気をつけた。

部屋は静まり返り、誰もいない。

だが、シンクの水たまりが微かに揺れているように見えた。

恐怖を振り払うように、彩花は布団に潜り込み、朝を待った。


翌朝、彼女は隣の部屋の老女に相談した。

ドアには名前がなく、ただ「101」と書かれたプレートが錆びついていた。

老女は皺だらけの顔で彩花を見上げ、目を細めた。

「その水には触れちゃいけないよ」と、低い声で言った。

「このアパート、昔から変な話がある。湖の水神が怒ってるんだ。20年前、若い娘が湖で死んでね……」

彩花は半信半疑だったが、老女の真剣な口調に気圧された。

「水道の水、飲まない方がいい」と老女は念を押し、ドアを閉めた。



彩花は水道を使うのをやめた。

スーパーで買ったペットボトルの水で料理や歯磨きを済ませ、蛇口には近づかないようにした。

だが、異変は収まらなかった。

夜中のポタポタ音は続き、時には「彩花……」と名前を呼ぶ声が混じる。

声は水道管の奥から、まるで水そのものが話しているようだった。


ある夜、洗面所の鏡を見ると、映る自分の顔がゆがんでいた。

目が不自然に大きく、口元が引きつっている。

「何!?」

彩花は叫び、後ずさった。

鏡の縁に水滴が浮かび、ゆっくりと這うように動いた。

まるで生き物のように。

部屋の空気は湿気を帯び、壁には細かい水滴が滲み始めていた。

カーテンを開けると、窓ガラスに水滴が不規則な模様を描き、まるで文字のように見えた。

「助けて」と。


彩花は震える手でスマホを取り、湖の伝説を調べた。地元の掲示板や古いニュース記事に、20年前の事件が記されていた。

湖で若い女性「美奈」が溺死した。

原因は不明。

遺体は異様に水を吸い込み、まるで湖そのものに取り込まれたようだったと書かれていた。

彩花の胸にざわめきが広がった。

美奈という名前が、なぜか遠い記憶を呼び起こす。

子供の頃、湖の近くで遊んだ記憶。

笑顔の女の子と、夏の陽射し。

でも、詳細は霧に閉ざされたようにぼやけていた。


次の日、彩花は湖へ向かった。

湖畔は静かで、葦が風に揺れ、水面は鏡のように空を映していた。

岸辺には小さな祠があり、苔むした石碑に「水神」と刻まれていた。

彩花は祠の前で手を合わせたが、背後で水がチャプンと跳ねる音がした。

振り返ると、誰もいない。

なのに、水面に小さな波紋が広がっていた。



アパートに戻ると、異変はさらに悪化した。

キッチンのシンクに黒い水が溜まり、異臭が漂っていた。

彩花が恐る恐る蛇口を覗くと、黒い液体がゆっくりと滴り落ち、シンクに落ちると「彩花」と文字を形作った。

「やめて!」

彼女は叫び、蛇口を叩いたが、黒い水は止まらず、床に広がった。

水は粘り気を持ち、まるで生き物のように彼女の足元に這い寄る。

冷たい感触が足首を這い、彩花は飛びのいた。


その夜、彩花は老女の部屋を叩いた。

「お願い、助けて!」

老女はドアを開け、彩花の手を見ると顔を強張らせた。

「お前も選ばれたんだ。あの子を忘れた罪を、水は覚えてる」と呟く。

「あの子? 誰!?」

彩花が叫ぶと、老女は目を細めた。

「お前が知ってるはずだ。湖で、何をした?」


その言葉に、彩花の記憶が揺さぶられた。

10歳の夏、湖畔での記憶。

友達の美奈と遊んでいた。

美奈は湖で泳ぎたがり、彩花は「危ないよ」と止めたが、彼女は笑って水に入った。

陽射しが眩しく、水面がキラキラ光っていた。

突然、美奈が叫び、藻に足を取られて沈んだ。

彩花は助けを呼ぼうとしたが、恐怖で足がすくみ、ただ見つめていた。

美奈の小さな手が水面でバシャバシャと動き、やがて消えた。

彩花は逃げ出し、その記憶を心の奥に封じた。


「そんな……私、忘れてたわけじゃない……」

彩花は震える声で呟いた。

老女は冷たく言った。

「水は嘘をつかない。あの子はお前を赦してないよ」


翌日、彩花は美奈のことを調べ直した。

図書館の古い新聞に、美奈の記事があった。

彼女の家族は湖の近くに住み、彩花の幼馴染だった。

記事には、事故後、湖周辺で不思議な現象が続いたと書かれていた。

祠に供え物をする者、夜中に水の音を聞く者。

水神の祟りだと囁かれていた。

老女の言葉が脳裏に響く。「

水は覚えてる」と。



彩花は湖に戻った。

深夜、懐中電灯の光が水面を照らす。

月明かりの下、湖は不気味な静けさに包まれていた。

彩花は祠の前に立ち、震える声で語りかけた。

「美奈、ごめん。あの時、助けられなかった。怖かったんだ……」


水面が揺れ、黒い影が浮かんだ。

美奈の姿だった。

青白い顔、濡れた髪、虚ろな目。

彼女の声が水底から響く。

「彩花、なんで見捨てたの? 一緒にいようよ……」

冷たい手が彩花の足首を掴み、湖へ引きずり込む。

彩花は必死に抵抗し、叫んだ。

「もう逃げない! 美奈、ごめん! 赦して!」


水面が激しく揺れ、美奈の影が叫び声を上げた。

彩花の記憶がフラッシュバックする。

美奈の笑顔、湖での遊び、彼女の最後の叫び。

彩花は涙を流し、叫び続けた。

「ごめん! ずっと忘れられなかった!」


突然、水面が静まり、美奈の影が消えた。

湖は鏡のように穏やかになり、祠の石碑が月光に輝いた。

彩花は地面に崩れ落ち、涙で顔を濡らした。

恐怖と罪悪感が洗い流されるように、胸が軽くなった。



翌朝、アパートに戻ると、水道のポタポタ音は止まっていた。

壁の水滴も消え、部屋は乾いていた。

老女の部屋を訪ねたが、ドアは開かず、誰も住んでいないようだった。

彩花はスケッチブックを開き、美奈の笑顔を描いた。

彼女の明るい目、夏の湖畔での笑い声。

彩花は呟いた。

「もう忘れないよ」


その日から、彩花のイラストには新しい光が宿った。

湖の風景、子供たちの笑顔、水のきらめき。

彼女は過去と向き合い、恐怖を乗り越えた。

湖は静かにそこにあり、彩花の心に穏やかな波を立てていた。


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