戦争与太話 マルチリンガルおばあちゃん
マルチリンガルとは一般に多言語話者のことを指すが、バイリンガル、トリリンガルの次の四か国語以上の話者にも使われる表現である。島国ゆえに総じて言語能力の低い日本では、トリリンガルでさえ絶滅危惧種に近いが、驚くべきことに、大正生まれの私の祖母は、中国語、ロシア語、日本語の他に朝鮮語もある程度操れるマルチリンガルだったのだ。
私の母方の祖母は、満州国大連で終戦を迎えた後、ソ連の収容所を経て引揚げ船に乗り、命からがら博多港に帰ってきた。同じような経験をした家族は相当数おり、引揚げの際の苦労話はよく伺うし、ソ連兵の横暴さも定番の話題である。しかし、私の祖母の場合は一味違う。
私の祖父母は大分県中津市の出身で、祖父は庄屋の一人息子だったが、陸軍の主計をやっていた関係で、台湾、満州と約十年近く海外駐留軍に帯同させられていた。
事務方だった祖父はずっと戦場に出る機会はなかったが、さすがにソ連が侵攻してくると経理業務どころではなくなり、前線に投入された。そして祖父の不在中、運命の八月十五日がやってきた。
祖父母が住んでいたところは、近くに長男の通う小学校がある下町の雑居区で、満州国建国のスローガンである”五族協和”を地でゆく世界が現出していた。つまり、日本人以外に中国人(厳密に言えば、満人と漢人)、朝鮮人、ロシア人が混在して暮らしていたのだ(蒙古系が近所に住んでいたという話は聞かなかった)。
大抵の軍人の家族は排他的な日本人ファーストで、他民族を見下していたため、日本語で用が足せるうえ利便性の高い官舎に住んでいたそうだが、祖母は社交家なので、外国人がいくら近所に住んでいようが意に介さなかったという。とりわけ交流が深かったのは、圧倒的多数の中国人と大雑把だが気さくなロシア人だったそうだ。
こんな生活が五年以上続けば、いくら素養のない中国語やロシア語でも自由に操れるようになるものだ(朝鮮語も日常会話程度なら問題なかったらしい)。祖父は日頃日本人の中で仕事をしているので、片言の中国語くらいしか身につかなかったようだが、近所での井戸端会議も仕事のうちの主婦は強い。専門的に学ばなくても、いつの間にか難解なキリル文字を使うロシア語までマスターしてしまうのだから。
戦争が終わると、前線に送られた祖父の行方もわからないうちに、日本人の住民は内地に戻らなくてはならなくなった。この時、二男二女を一人で面倒を見なくてはならない祖母を案じてか、近所の中国人夫婦が「一人くらいなら預かるよ」と言ってくれたそうだが、気丈な祖母は親切な中国人夫婦の申し出を断って一人で連れて帰ることにした。
移動中の電車が戦闘機から銃撃された時は、逃げ場がないので覚悟を決めてじっとしていたら、周囲の人が次々と被弾して倒れてゆく中、鋼鉄の暴風雨は自分たち家族を避けるかのように通り過ぎていったそうだ。この時はまだ五歳の母は機銃掃射の記憶はないというが、祖母は至近距離で機銃弾を浴び、身体に大きな穴が空いた死体を見ている。こういう場面に遭遇したら、今の三十代四十代のお母さんだったら、腰を抜かして動けなくなるか、子供そっちのけで恐怖のあまり泣き叫ぶかもしれないが、祖母曰く「こんなことでびびっている場合でない」という気構えだったらしい。
機銃掃射の次に待ち構えていたのはロシア軍による検問だった。時計や指輪などの金目の物は全て没収されたが、隠していた紙幣は見つからないまま、収容所に送られた。
軍紀の乱れによる暴行や略奪が日常茶飯事のロシア軍の捕虜収容所である。人権などないに等しく、餓死者が出るほど食糧事情は劣悪だった。そのためロシアの捕虜収容所で過ごした経験のある方は大抵ロシア人に嫌悪感を抱いている。
ところが祖母はロシア語で日常会話ができるという強みがあったおかげで、しばらくするとロシアの女性兵士たちと言葉を交わすようになった。ロシアの女性兵士も、言葉も通じない異国人収容者の見張りばかりやらされて退屈なのだろう。しばしば収容者に何か話しかけてくるのだが、誰もちんぷんかんぷんで無反応である。その棟では祖母だけがロシア語を理解できたので、よく話しかけられ、そのうち親しくなったというから、日露のおばちゃんたちのコミュニケーション能力恐るべしである。
祖母は油絵が趣味で、亡くなる直前までウィスキーのストレートを愛飲する粋人だったから、案外大酒飲みのロシア人と与太話で盛り上がっていたのではないかと推察する。
女性兵士の中には自らも子を持つ母親がいて、四人の子供を抱えた祖母のことが気になるのか、何かと気にかけてくれたらしい。祖母は社交家ゆえに大胆なところもあるので、「何か困ったことはないか」と尋ねられた時、ずうずうしくも「子供がお腹をすかしているので、何か食べ物を下さい」と頼んでみた。
すると次の日、女性兵士がパンやチーズなどの食糧をこっそり差し入れしてくれたそうだ。
中には「息子のことで急遽金が必要になったので、少額でもいいので貸してくれないか」と逆に頼み込んできる兵士もいたという。さすがにその時は「上手いこと言って、有り金全部巻き上げようという魂胆では」といぶかしんだが、どうせ隠していてもここに居る限り使えないと割り切って全額渡すことにした。
それから数週間も経った頃、その女性兵士が「あの時は有難う。助かったわ」と全額返済してくれたのには驚きを隠せなかったと述懐している。
他の収容者たちには悪いと思いつつも、母親が自分の子供を守るのは本能である。その後もロシア兵の善意の差し入れによって家族は飢餓に苦しむことなく、引揚げ船に乗船する順番が来るまで生きながらえることができた(但し乗船直前に一歳の次男が栄養失調で亡くなった)。
この時の経験もあって、祖母はロシア人に感謝こそすれ、嫌悪感など見せることはなかった。
遡れば、祖母は長年雑居区で暮らし、人種的偏見を一切持たなかった。おかげで多言語を操れるようになったばかりか、生活文化圏も接しているおかげで、外国人同士が互いに共通認識を持つようになり、祖国同士は争っていても、住民レベルではごくありきたりのご近所さんとして共生していた。そう、祖母の国際都市大連での近所付き合いこそが、グローバルコミュニケーション能力向上の原点となり、結果として家族の生命も救ったのだ。
偶然ながら、離れ離れになっていた祖父もまた外国人の協力のおかげで命拾いしていた。
前線で捕虜となった祖父たちはハルビン駅に集められ、そこから列車に乗せられてシベリアまで送還されることになっていた。
幸い万単位の日本人捕虜でごった返すハルビン駅は警備も緩かった。脱走が発覚すればもちろん銃殺だが、ロシアに送られては助かる見込みはないと考えた祖父は、たまたま駅で再会した旧知の中国人に脱走の手配を頼んでみた。そして便所に入った隙に軍服から中国人が用意した中国服に着替えると、中国人のふりをしてまんまと脱走に成功したのである(ハルビン駅から脱走した例は結構多い)。
ロシア人の目から見れば日本人も中国人も同じである。中国人に扮した日本人が中国語でまくしたてたところで、ネイティブかどうかわかるはずもないし、そもそも文法さえ理解できないだろう。
おかげで別ルートから半年送れで日本に帰国できた祖父は、祖母の実家で世話になっていた家族との再会を果たすことができた。祖父からすれば、危険を承知で脱走に手を貸してくれた中国人の友人さまさまであった。
人種間の対立の主要因は相互理解の欠如である。だからといって日本に来た中国人に郷にいれば郷に従え式に規律を強要しても、軋轢が生まれるのは避けられないだろうし、逆もまた真なりである。
しかし、大連の雑居区ように複数の民族が共生している場所だったらどうであろう。一対一だとむきになって引けないことも、それぞれが一対多の関係になれば、複数の民族に対する妥協なくして安心安全な暮らしは成り立たないから、相互理解が進み、いがみ合うこともなくなるのではないだろうか。
祖母は自身の経験から異民族同士でも必ずわかりあえるという確信を持っており、私にも、敵愾心など何の役にも立たない、と口を酸っぱくして言ったものだ。
現在も政治的確執がある国の国民と先入観を持たずに接するのは、マザー・テレサ並みの寛容さが必要なのかもしれない。私自身は、勤勉で親切なドイツ人とイギリス人が一番ウマが合い、次に底抜けに明るいイタリア人、人なつっこいタイ人、アメリカ人は当たり外れが多く、同僚だった中国人はいい人だったので、偏見はない。その代わり、富裕層の子弟のフィリピン人とマレーシア人の小生意気さには閉口した記憶があり、旧同盟国は民族的な相性もあってのことだったのかもしれないなどという勝手な思い込みを持ったこともあるが、今ではできることなら祖母のような境地に到達したいと思っている。
なお余談ながら、人を色眼鏡で見ない祖母は、初対面のどんな猛犬とも仲良くなれるという特技を持っており、他家の番犬の頭を撫でて噛み付かれたことは一度もない。
戦前から日本の外交交渉は下手だと言われてきたが、今日でも選りすぐりのエリートのはずの外務官僚たちが知恵を絞っても、外交的勝利といえるような実績は皆無で、アメリカや中国の口車に乗せられているようにしか思えないのは私だけではないだろう。そんなことならむしろ話好きであつかましいくらいフレンドリーなバイリンガルのおばちゃんたちをスカウトして、晩餐会などを通じて外国の公使や閣僚の夫人たちとの井戸端会議に精を出してもらった方が、きっと効果は上がると思う。人前ではエラそうにしていても女房の前では頭が上がらない男という図式は万国共通だから、外堀から埋める方が早い気がする。学力と話術が別物なのは、社会的地位と学歴だけでは異性を口説けないことからも明らかである。ためしに腕利きのナンパ師か誰とでも仲良くなってしまうおばちゃんを外交官に抜擢してみるような翔んだ政治家が現れないものだろうか。