「夜の隙間で、また会いたい」
それから、幾夜かの時間が過ぎた。
静かに、しかし確かに――紗月は“夜”という名の隙間に入り込むようになっていた。
彼女は以前よりも長く透の傍にとどまり、透もまた、それを受け入れるようになっていた。
その夜もまた、部屋の灯りは薄く、風はぬるく、時間はやさしい。
ソファの上で、紗月は透の隣に座っていた。互いの肩が触れ合いそうで触れない、けれど、もう初めての頃のような緊張はなかった。
代わりに――彼女の胸には、言葉にできないもどかしさが、ふくらみ始めていた。
「……ねえ、透」
少し低めの声で、彼女が呟く。
「なに?」
「紬とさ……その、どこまで……仲、いいの?」
不意を突かれたように、透は目を見開いた。
けれど、すぐに表情を緩めて、苦笑する。
「どうしたの、急に。焼きもち?」
その言葉に、紗月の指がぴくりと動いた。
言い返すよりも先に、感情が身体を刺してきた。
焼きもち――
そう、それだ。
それがこの胸をざわつかせている、名もない感情の正体だった。
「……違う」
唇が、そう言った。
でも、胸の奥では、はっきりと叫んでいた。
違わない。わたしは、あなたに触れたくて。
あなたに見てほしくて。
紬に向けられるその優しさが、わたしだけのものになればいいのにって――そう、願ってしまった。
「紗月」
透がゆっくりと顔を向ける。
その目が、まっすぐに紗月を映していた。
「僕は、紬が大事だよ。……でも、君が話してくれることも、嬉しいと思ってる」
それが、彼の“答え”だった。
やさしくて、誠実で、でも残酷なほどに――線引きのある言葉。
「……そう。そうだよね」
紗月はうっすらと笑ってみせた。
でもその笑みの奥にあるものを、透はきっと気づいていない。
私がどんな想いでここにいるか。
どれほど、“紬の影”であることが苦しいか。
それでも、消えてしまうのが怖くて、夜ごとこうしてあなたの隣に来てしまうことを――
「……手、貸して」
ぽつりと、彼女は言った。
透は少し驚いたが、何も言わずに手を差し出す。
紗月はその手を、両手で包むように握った。
まるで、それが最後の拠り所であるかのように。
「透、わたし……わたしね、ずっと思ってたの」
声が震える。
「わたしは、ただの代わり。紬の心を守るためだけに生まれた、記憶の影。だから、あなたに触れちゃいけないって、思ってた。でも――」
その言葉は、涙に揺れていた。
まだこぼれていないその雫が、今にも落ちそうなほどに。
「でもね、透。わたし、あなたの笑い声を聞いてると……」
言葉が詰まる。
「……わたし、“生きたい”って、思ってしまうの」
――その夜、紗月は泣いた。
声も出さずに、ただ肩を震わせ、そっと透の手を離した。
透は彼女を抱きしめることもできず、ただその場にいた。
静かな夜が、すべてを包んでいく。
「……また、来るね」
そう言って立ち上がった紗月は、振り返らずにそのまま眠りの奥へと沈んでいった。
まるで――
ほんとうに“夢”だったかのように。
それから数日――紗月は来なかった。
透は、それを口には出さなかったが、気づけば夜が来るたび、どこか心の奥で「今日も現れるだろうか」と、そわそわと耳を澄ませている自分に気づいていた。
いつの間にか、彼の中で紗月の存在が“異物”ではなくなっていた。
静かに部屋に現れて、ぽつりぽつりと話し、そしてそっと消えていく――その儚さが、まるで夕立のあとの空気のように、彼の心に何かを残していく。
だからこそ、現れない夜が続くと、妙に寒々しい。
部屋の空気も、照明の色も、すべてが少しずつくすんで見えた。
そして――夜。
扉がノックされたわけでも、誰かの声がしたわけでもない。
ただ、振り返ると、そこに彼女はいた。
「……ごめんね。ちょっと、怖くなってた」
そう言って現れた紗月の声は、かすかに掠れていた。
どこか、風のような声だった。
「来てくれて、嬉しいよ」
透は自然に微笑んだ。
ああ、自分はこの子に、こうやって笑いかけたかったんだ――そんな確信と共に。
紗月は、いつもより少し時間をかけて彼の隣に座る。
そしてしばらく、ふたりは言葉を交わさず、ただ夜の匂いに包まれていた。
「……あのね、透」
ぽつりと、紗月が言う。
「もしもわたしが、“このまま残れたら”って考えたら、変かな」
透は、何も答えられなかった。
その声には、祈りと、罪悪感と、そして――紛れもない“願い”が混ざっていた。
「紬の中で、生まれて、ずっと彼女を守ることだけが“役目”だった。でもね、透くんと話すようになってから……そうじゃない何かになりたいって、思っちゃう」
透は、ゆっくりと視線を下げた。
紗月の手が、自分の指にそっと触れようとしているのがわかった。
「紗月」
彼女の名を呼ぶと、紗月ははっとして、手を引こうとする。
だが、透はその手をそっと包み込んだ。
「僕は……まだ答えを出せない。でも、君と話すのは、嫌じゃない。むしろ……うれしいって、思ってる」
その一言が、紗月の胸を大きく揺らす。
温かく、でも切なく。
まるで、許されない恋の始まりのようだった。
「……ありがとう」
彼女は微笑んだ。
その笑みは、ごくわずかに滲んでいた。
―――
そして、その翌朝。
目を覚ましたのは紬だった。
カーテン越しに差し込む光は、やわらかくてまぶしい。
けれど、胸の奥に残っていた感覚――
まだ覚めきらない、ある記憶の欠片が、彼女の呼吸をふと曇らせた。
(……わたし、また……)
瞼の裏に、透の姿が浮かんだ。
だけどそこにあったのは、“自分”の視点ではなかったような気がして。
手を伸ばせば届きそうな距離。
けれど、触れられないもどかしさ――
その感覚だけが、微かに、胸に残っていた。
紬は、知らず知らずのうちに胸元を押さえた。
まるで、そこに何かが“欠けて”いるかのように。