「夜だけのやさしさ」
それから、数日おきに――紗月は夜になると、透の前に現れた。
決まって紬がうたた寝するように眠りについた少しあと。カップに注いだ紅茶の温度がまだ温かいうちに、紗月は目を覚ます。
「こんばんは、透くん」
いつものように、ふいに現れるその声に、透の肩が小さく揺れることはもうなかった。最初こそ、どこかぎこちなかったけれど、今では自然に会話が始まる。
「……眠れなかった?」
「うーん。そういうわけじゃないけど、出てみたいなって思った。」
その言葉が、透の胸に少しだけ、音を立てて触れた。
リビングの灯りは落としていた。間接照明の淡いオレンジ色が、輪郭を浮かび上がらせる。
透はソファに座り直し、手にしていたコントローラーを置いた。
「前にやってたゲーム?まだ続き?」
「うん。って、あれ…紗月の前ではやってないはずだけど…紬から知ったの?」
「そう…みたいだね。紬が知っていることは、私も知っているし。」
「ふーん…そっか。」
紗月はゆっくりと、透の隣に腰を下ろす。
二人の間に生まれる沈黙が、不思議と苦ではなかった。まるで、すでにいくつもの季節を共に過ごしてきたような、不思議な落ち着きがそこにあった。
窓の外では、雨がやんでいた。けれど空気には、まだしっとりとした夜の湿度が残っている。
「……ねえ、透くん」
紗月が、静かに問いかける。
「私って、“変”じゃない?」
「どうして?」
「たとえばさ、あなたとこうして話していても……“私じゃない”って、思われてる気がするの」
透は、少しだけ考えてから答えた。
「……正直、最初は戸惑った。でも今は――」
言葉を探しながら、彼は紗月を見た。その視線に、迷いはあっても拒絶はなかった。
「君が君として、そこにいるなら、それでいいと思ってる」
紗月の目がわずかに見開かれたあと、ふわりと優しく細められた。
「ありがとう」
その一言は、想像以上に小さく、けれど深く透の胸に染み込んだ。
手の甲がふいに触れた。触れたのは偶然か、それとも。
けれど透は、その手を退けなかった。
部屋は静かだった。時計の針の音が、かすかに聞こえる。
ゆっくりと、まるで季節が変わるみたいに――二人の距離は、ほんの少しずつ近づいていった。
――それから、幾度かの夜が過ぎた。
季節は初夏へとゆるやかに移り、窓をそっと開ければ、遠くで風鈴のような虫の声が微かに聞こえはじめる。湿り気を含んだ空気が、頬を撫でるように部屋の中へ入り込んで、透はベランダに干したシャツの柔らかな揺れに目を細めた。
時計の針は、夜の一時を指していた。
リビングの電球がぼんやりと淡い光を灯し、部屋の隅には温かい飲みかけのココアと読みかけの文庫本。
「……まだ、起きてたんだ。“透”」
声がしたとき、彼は少しだけ驚いたように顔を上げた。けれど、その目はもう怯えてはいなかった。静かに、優しく、ただそこに“彼女”がいるのを当たり前のように受け入れている目だった。
ソファの向こう、眠りに落ちた紬のまなざしとは違う――
そこに立つのは、紗月だった。
薄手のカーディガンに包まれた彼女は、床に影を落としながら、透の隣にゆっくりと腰を下ろす。何度かこうして顔を合わせるうちに、ふたりの距離は少しずつ近づいていた。互いの息遣いや、眼差しのぬくもりに、もはや警戒もぎこちなさもなかった。
「……眠れなかったの?」
「うん。……なんとなく、ね。ココア飲んだら、少し楽になるかなって」
彼は、少し照れたように笑いながら、自分のカップを指差す。
紗月はその匂いに鼻を近づけ、小さく笑った。
「いい匂い…透が好きそう。」
「甘党だからね」
そう言いながら、彼女にそっとカップを差し出す。
一瞬、戸惑ったように目を伏せた紗月だったが、ふと唇を近づけ、透が飲んだその口に残るぬくもりを追うように、一口だけすする。
そして、そっと目を閉じた。
「……こんな味、知らなかった。あったかくて、甘くて、やさしい」
「いつでも淹れるよ」
その言葉に、紗月は静かに目を開ける。
「それって……私のために?」
「そうだよ」
透の声は、まるで春の雨のようだった。音もなく、でも確かに心の奥を濡らしてくるような。
紗月は、何も言えずにただその横顔を見つめた。
なぜ、こんなにも穏やかなのだろう。
なぜ、こんなにもまっすぐに言葉を差し出してくるのだろう。
私が“本物じゃない”と、知っているはずなのに。
「……あのね、透」
声が震えそうになるのを抑えながら、彼女は問いかける。
「わたしって……ねえ、あなたにとって、どういう存在なの?」
その声はひどく静かで、けれど奥に濃い感情を秘めていた。
透は答えに詰まる。すぐには言葉が見つからなかった。
「……難しいよ、それは。“言葉”にするのが」
「なら、言葉じゃなくていいの。……あなたの目で、教えて」
ゆっくりと、紗月は手を伸ばす。
そっと、透の指先に触れる。
一度だけ、離れそうになって、でも――勇気を出して、そのまま重ねた。
それは、恋人の手ではなく、
温もりを欲する一人の“心”が差し出した祈りのような触れ方だった。
透もまた、応えるようにその手を握り返す。
音もなく繋がれた手のひらが、ふたりの間に残されたほんのわずかな境界線を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
「……今日、紬と出かけた?」
ふと、紗月が問う。透は少しだけ驚いて、けれど誤魔化すように笑った。
「うん、ちょっとだけ。本屋に。ほら、紬が気になる本があるって言ってたから」
「……そう」
その言葉に、紗月の目がわずかに揺れる。
その揺れは、風の中に紛れるほど微細なものだったけれど、確かにそこには嫉妬の色があった。
――紬は、透と過ごす時間を当然のように持っている。
でも、わたしは。わたしは、ただ夜をすり抜ける風みたいに、少しだけ、触れるだけの存在で――
その思いが胸を締めつける。
けれど、言わない。
言ってしまえば、きっとすべてが壊れる気がしたから。
「……また、来てもいい?」
「もちろん」
即答だった。
その声、その言葉があまりにも優しくて、
だからこそ、紗月は胸の奥で何かが崩れる音を聞いた気がした。
“好きになってしまいそう”
でもそれは、決して許される想いじゃない。
だって彼は、紬のものだから。
私はただ、“守る”だけの存在だから。
それでも。
それでも、今夜だけは――この手のぬくもりを、信じたかった。