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「影がふたりを分ける前に」



 雨が降りそうで、降らない、そんな曇り空の午後だった。


 透は、紬と過ごしていた。

 何気ない会話。ぎこちない笑顔。

 それでも、あたたかな空気がそこにはあった。


「……透くん、ちょっと……ごめんね。少し、休むね」


 そう言って、紬は目を伏せた。

 その表情はどこか、苦しそうで、

 けれど理由は訊けなかった。


 静かな沈黙が、ふたりの間をゆっくりと流れたあと。


 紬がふと、顔を上げた。




 いや――それは、紬ではなかった。




 目の奥の光が、どこか違っていた。

 佇まいも、空気も、声も。


「……こんばんは。透くん」


 驚きに言葉が出なかった。

 けれど、不思議と怖さはなかった。


 彼女は、微笑んでいた。けれどその微笑みには、どこか触れたら壊れてしまいそうな静けさがあった。


「紬、じゃ……ない、んだよね?」


「うん。はじめまして。私は、紗月。……紬の中にいる、もう一人の人格」


 その言葉を聞いた瞬間、透の中に何かがひっかかった。

 理解しきれないまま、それでも、目を逸らせなかった。


「……紗月、さん」


「“さん”はつけなくていいよ。あなたがそう呼ぶと……少し、距離を感じるから」


 そう言った彼女の目は、どこか寂しそうだった。



 紗月。

 初対面なのに、落ち着いていて、艶やかで――

 どこか、透の胸を静かに揺らす何かがあった。



 同じ顔なのに、まるで別人。

 同じ声なのに、響きが違う。

 それでも、その存在はどこか懐かしさすら感じさせる。



「俺に……用があって?」


「用、ってわけじゃないけど。……ただ、少し、話してみたかったの」



 その声は、ごく自然だった。

 でもその自然さが、どこか痛いほどだった。


「本当はね。関わらないほうがよかったんだと思う。私の役目は、紬を守ることだから……」


「それでも、来たの?」


 紗月は、目を伏せて、少しだけ唇を噛んだ。

 そして、小さく頷いた。


「……うん。だって、あなたのこと、見てたから。ずっと」


 静かに告げられたその言葉が、透の胸の奥に沈んでいく。

 温かいのに、どこか苦しかった。


「あなたが紬に優しくしてくれて、笑わせてくれて……。

 そういう姿を、私は、ずっと、見てた。……だから――」


 だから、惹かれてしまったのだと。

 きっとそれは、彼女の中でも認めたくない感情だった。


 透は言葉を探した。でも、見つからなかった。


「……ありがとう、来てくれて」


 それだけを、ようやく絞り出した。


 その瞬間、紗月は少しだけ驚いたように目を丸くして、

 やがて、ふわりと微笑んだ。


「……優しいね。やっぱり、透くんは」


 その微笑みは、どこか悲しみを帯びていて。

 まるで、自分自身に言い聞かせるようだった。



 “この感情に名前をつけてはいけない”――

 そんな抑え込まれた心の声が、透には聴こえた気がした。



 それでもその夜、ふたりは少しだけ話した。

 季節の話。紬の好きな色。最近の出来事。

 ほんのわずかな言葉のやりとりなのに、

 透の胸の奥には、ひとつひとつが深く刻まれていった。



 まるで――


 消えてしまう夢を、必死に掴もうとするように。



 やがて、紗月がそっと瞼を伏せる。

 そのまつげがわずかに揺れたあと、静かに口を開いた。


「……もう、戻らなきゃ。紬が目を覚ます」


 その言葉に、透の胸が、かすかに疼いた。


 ほんの少しだけ――

 もう少しだけ、話していたかった。



 だから、透は言った。


「……また、話そう。いつか、また……」



 紗月は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に、一瞬だけ、光が差したように見えた。


「……そんなこと、言われたことないや」


 かすかに笑ったその表情は、どこか安心したようで、

 そして、切なさを含んでいた。


「じゃあね。透くん」


 小さな声で、名残惜しそうにそう言うと、

 紗月は目を閉じた。



 雲は、まだ空にあった。

 雨は、降りそうで、やはり降らなかった。



 夕方、部屋の中。

 西日がカーテン越しに差し込み、床に淡い朱色の影を落としていた。


 さっきまで、そこにいたのは――紗月だった。


 その声も、眼差しも、仕草も。

 同じ顔をしているはずなのに、まるで違う人間に見えた。


 そして、目の前の彼女が、ふいにまばたきをして顔を上げた。


「……ん。あれ? ごめん、透くん。ちょっとぼうっとしてたみたい」


 ……紬、だった。


 透は、その変化を目の当たりにしながら、すぐに反応できなかった。

 一瞬、時間がすべて置き去りにされたような感覚。

 胸の奥で、見えない波が静かに立ち上がる。


「大丈夫……?」


「え、うん。ちょっと……疲れてたのかも」


 紬はそう言って、頬をかすかに紅くしながら笑った。

 いつものように、ほんの少し不器用で、優しい笑顔。


 透は、無理に笑みを浮かべて頷いた。


 けれど――どうしても、さっきの“彼女”の記憶が、心から離れなかった。


 あの落ち着いた声。

 自分を見透かすような眼差し。

 それでいて、寂しさと戸惑いを隠しきれていない雰囲気。


「……何かあったの?」


 紬の問いかけに、透はすぐには答えられなかった。


「……いや、なんでもない。ちょっと、考えごとしてただけ」


 その場しのぎの言葉だった。

 けれど、紬は深く追及しようとはしなかった。


「ふふ。ならよかった」


 その笑顔が、なぜだか胸に痛かった。

 まるで何も知らずに笑う少女と、

 何かを知ってしまった自分との間に、細く、深い断絶ができてしまったようで。




 その夜、透は窓の外を眺めて、夜風を受けながら、

 ずっと考えていた。


 紬と紗月。

 ふたりは同じ身体に宿っていて、

 でも、明らかに違う“誰か”だった。


 透は、心の奥底に芽生えた不安を否定できなかった。

 そして、気づいていた。


 あのとき、自分は確かに――

 初対面の“彼女”に、心を揺さぶられていたことを。


 《……あなたのこと、見てたから。ずっと》


 あの言葉が、耳の奥で何度も反響する。


 あれは誰だったのか。

 そして、自分は誰を見ていたのか。


 目を閉じると、紬の柔らかな笑顔と、

 紗月の静かな眼差しが、重なるようにして浮かんだ。


「……。」


 飲み込んだ言葉は、夜空へ溶けていった。


 背中では、紬が静かに眠っている。

 無垢な寝息と、そっと伸ばされた指先。


 透はその手に触れながら、心のどこかで、

 自分が何かに嘘をついていることを、痛いほど感じていた。


 ――けれど、今はまだ、それを言葉にすることすらできなかった。


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