表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

「わたしの中の誰か」

 


 夜。アパートのリビング。

 カップに注がれた白湯から、うっすら湯気が立ち上っている。

 冬の手前、外の風は冷たいのに、部屋の中は少しだけぬるく感じた。


 (つむぎ)は、小さく丸まったような姿勢でソファの端に座っていた。

 その隣に、(とおる)がいる。

 けれど、ふたりの間には、いつもより少しだけ距離があった。


 紬は、言葉を選ぶようにして、じっと俯いていた。


「透くん……あのね」


 少し間があって、続けた。


「わたし……少し、変なんだ」


 透は視線を外さず、小さく首を傾げる。


「変って?」


「……自分でも、うまく言えないんだけど……でも、ちゃんと話しておかなきゃって、思ってた」


 その声はかすれていて、どこか泣きそうだった。


 透はなにも言わず、そっと頷いた。


「わたし……病気が、あって」


 その言葉に、ふいに空気が変わった気がした。


 紬は、胸の前で両手を握りしめていた。


「“解離性同一性障害”っていうの。むかしは“多重人格”って、言われてたらしい……」


 言いながら、彼女は怖がっているようだった。

 透が、何かを言うのを、ただ黙って待った。


「……それって、身体は一つだけど……中に“他の人”がいるってこと、なの?」


「……うん。……そういう、感じ……」


 言葉を選ぶのが難しそうだった。

 何度か唇を動かして、やっと彼女は小さく話し始めた。


「……小さいころから、お父さんに……ずっと、殴られてて……」


 透の手元がぴくりと動いた。

 彼女の話を遮らぬように、じっと目を伏せる。


「怖くて……でも、逃げられなくて。泣いちゃダメって思っても、どうしても無理で……」


 そこから、彼女の声がかすかに震え始めた。


「……ある日、気づいたら……わたしの中に、“誰か”ができてたの。……自分とは違う声で、頭の中で喋ってて……その人が、代わりに怒り返してくれたり、逃げたりしてくれた」


「それが……“もう一人の自分”?」


「……うん。きっと、わたしが壊れないように、出てきてくれたんだと思う」


 彼女の目は、なにも映していないようで、どこか遠くを見ていた。

 記憶の底に沈んでいくような、深い深い井戸の底。


「……いまも、ときどき……記憶が途切れたりするの。何してたか、思い出せなかったり……気づいたら、時間が過ぎてたり……」


 透は、小さく息をのんだ。

 けれど、それを彼女には気づかせまいと、静かに声を落とした。


「……こわくなかった?」


 その問いに、紬は、少し笑って――でもその笑顔には涙が混ざっていた。


「こわかったよ。……ずっと、自分が自分じゃなくなるみたいで。頭の中で喋ってる誰かに、体を乗っ取られるみたいで……。でも、それでも……ひとりじゃないって、思うと、ちょっとだけ、救われることもあった」


 その言葉は、矛盾しているようで、真っ直ぐだった。


「……ごめんね。びっくり、したよね。嫌だよね、こんなの」


 その声には、ひどく繊細な恐れが滲んでいた。

 まるで、“嫌われること”だけが現実になると思い込んでいるような声だった。


 けれど――


「……そんなこと、思わないよ」


 透は、すっと手を伸ばし、紬の指に自分の指を重ねた。


「驚いたのは……正直、ある。けど、知れてよかった。今まで言えなかったことを……俺に、話してくれて、ありがとう」


 紬は、ふるふると首を振った。

 その目には、光るものが滲んでいた。


「……わたし、怖かった。言ったら、透くんが離れていっちゃうんじゃないかって……。だから、ずっと隠してたの……でも、ずっと苦しくて……」


「大丈夫」


 透は、その手を優しく握った。


「ここにいるよ。ちゃんと、隣にいる」


 その言葉に、紬はついに、声もなく泣いた。

 子どものように、小さく震える肩を、透はそっと抱きしめた。


 ――何も言わずに。


 ただ、静かに夜がふたりを包んでいた。


“解離性同一性障害”とは、ひとりの人の中に「複数の人格」が存在し、

それぞれが交代で表に出てくる精神疾患です。


主な特徴は:


異なる人格(交代人格)が存在し、それぞれに名前や性格、記憶、行動様式がある


人格が切り替わるとき、記憶が途切れる(健忘)ことがある


多くは幼少期の虐待や強いストレスなど、心的外傷トラウマによって発症する


人格たちは、もともとの人格「主人格」を守るために生まれると考えられています。


簡単に言えば:

耐えきれない心の痛みから身を守るために、“心の中に他の自分をつくり出した”状態です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ