「わたしの中の誰か」
夜。アパートのリビング。
カップに注がれた白湯から、うっすら湯気が立ち上っている。
冬の手前、外の風は冷たいのに、部屋の中は少しだけぬるく感じた。
紬は、小さく丸まったような姿勢でソファの端に座っていた。
その隣に、透がいる。
けれど、ふたりの間には、いつもより少しだけ距離があった。
紬は、言葉を選ぶようにして、じっと俯いていた。
「透くん……あのね」
少し間があって、続けた。
「わたし……少し、変なんだ」
透は視線を外さず、小さく首を傾げる。
「変って?」
「……自分でも、うまく言えないんだけど……でも、ちゃんと話しておかなきゃって、思ってた」
その声はかすれていて、どこか泣きそうだった。
透はなにも言わず、そっと頷いた。
「わたし……病気が、あって」
その言葉に、ふいに空気が変わった気がした。
紬は、胸の前で両手を握りしめていた。
「“解離性同一性障害”っていうの。むかしは“多重人格”って、言われてたらしい……」
言いながら、彼女は怖がっているようだった。
透が、何かを言うのを、ただ黙って待った。
「……それって、身体は一つだけど……中に“他の人”がいるってこと、なの?」
「……うん。……そういう、感じ……」
言葉を選ぶのが難しそうだった。
何度か唇を動かして、やっと彼女は小さく話し始めた。
「……小さいころから、お父さんに……ずっと、殴られてて……」
透の手元がぴくりと動いた。
彼女の話を遮らぬように、じっと目を伏せる。
「怖くて……でも、逃げられなくて。泣いちゃダメって思っても、どうしても無理で……」
そこから、彼女の声がかすかに震え始めた。
「……ある日、気づいたら……わたしの中に、“誰か”ができてたの。……自分とは違う声で、頭の中で喋ってて……その人が、代わりに怒り返してくれたり、逃げたりしてくれた」
「それが……“もう一人の自分”?」
「……うん。きっと、わたしが壊れないように、出てきてくれたんだと思う」
彼女の目は、なにも映していないようで、どこか遠くを見ていた。
記憶の底に沈んでいくような、深い深い井戸の底。
「……いまも、ときどき……記憶が途切れたりするの。何してたか、思い出せなかったり……気づいたら、時間が過ぎてたり……」
透は、小さく息をのんだ。
けれど、それを彼女には気づかせまいと、静かに声を落とした。
「……こわくなかった?」
その問いに、紬は、少し笑って――でもその笑顔には涙が混ざっていた。
「こわかったよ。……ずっと、自分が自分じゃなくなるみたいで。頭の中で喋ってる誰かに、体を乗っ取られるみたいで……。でも、それでも……ひとりじゃないって、思うと、ちょっとだけ、救われることもあった」
その言葉は、矛盾しているようで、真っ直ぐだった。
「……ごめんね。びっくり、したよね。嫌だよね、こんなの」
その声には、ひどく繊細な恐れが滲んでいた。
まるで、“嫌われること”だけが現実になると思い込んでいるような声だった。
けれど――
「……そんなこと、思わないよ」
透は、すっと手を伸ばし、紬の指に自分の指を重ねた。
「驚いたのは……正直、ある。けど、知れてよかった。今まで言えなかったことを……俺に、話してくれて、ありがとう」
紬は、ふるふると首を振った。
その目には、光るものが滲んでいた。
「……わたし、怖かった。言ったら、透くんが離れていっちゃうんじゃないかって……。だから、ずっと隠してたの……でも、ずっと苦しくて……」
「大丈夫」
透は、その手を優しく握った。
「ここにいるよ。ちゃんと、隣にいる」
その言葉に、紬はついに、声もなく泣いた。
子どものように、小さく震える肩を、透はそっと抱きしめた。
――何も言わずに。
ただ、静かに夜がふたりを包んでいた。
“解離性同一性障害”とは、ひとりの人の中に「複数の人格」が存在し、
それぞれが交代で表に出てくる精神疾患です。
主な特徴は:
異なる人格(交代人格)が存在し、それぞれに名前や性格、記憶、行動様式がある
人格が切り替わるとき、記憶が途切れる(健忘)ことがある
多くは幼少期の虐待や強いストレスなど、心的外傷によって発症する
人格たちは、もともとの人格「主人格」を守るために生まれると考えられています。
簡単に言えば:
耐えきれない心の痛みから身を守るために、“心の中に他の自分をつくり出した”状態です。