学校を作ろう
「うむ、決めた。ここに学校を作ろう」
殿様の突然の言葉に、家臣たちは皆顔を見合わせた。
「お、お待ちを、殿! この地へは父君、祖父君の墓所を求めて来られたのではなかったのですか?」
「その件はその件で継続する。ここは静かで、学問をするには最適だ。そうは思わぬか?」
と言われても――。家臣たちとしては困惑するしかない。
殿様はたいそう学問を好んだが、その家臣たちは必ずしもそうではなかったのだ。
殿様の名は池田光政。備前岡山藩三十一万五千石の主である。
時に寛文六年(1666年)、十二月のことであった。
光政は、織田信長に仕え彼の乳兄弟でもあった武将・池田恒興の曾孫、その子で初代姫路藩主となった池田輝政の孫にあたる。
父・利隆が若くして亡くなるとその跡を継いで姫路藩第三代藩主となったが、この時わずか数え年八つ。山陽道の要衝姫路を幼君に任せるわけにはいかぬと、幕府は池田家を因幡鳥取の地に移封し、代わりに徳川四天王の一人本多忠勝の子・忠政を据えた。
姫路から鳥取に移された光政。
その際に四十二万石から三十二万五千石に減封されたにもかかわらず家臣団の扶持高は維持しなければならず、おまけに鳥取の地の生産力も低かったため、随分と苦労したが、それが彼の行政家としての手腕を磨くことともなった。
数え年二十四歳の時、彼の叔父である備前岡山藩主・池田忠雄が死去し、後嗣の光仲がまだ三歳と幼かったため、国替えが行われ、光政が岡山藩主となる。
以来三十四年、光政は領内の開発や治水事業、産業振興を進める一方、学問も奨励してきた。
しかし、家臣たちの中には、学問など何の役にも立たぬと考える者も少なくない。
「学校でしたら、すでにご城下にございますでしょう」
光政は儒学者の熊沢蕃山を招聘し、城下の花畠に教場を設けた。今から二十五年ほども前のことである。
「あれは藩士のための学校であろう。この地には、庶民も通える学校を置こうと思う。その方たちも、手習い所の数が多すぎると文句を言っておったではないか。あれらを統合するのだ」
庶民のための手習い所の数も、すでに数百箇所に及んでおり、その運営費用も馬鹿にならなくなっていた。それを整理すると言われては、家臣たちも黙らざるを得ない。
「重二郎、重二郎はおるか!」
「はい、ここに」
光政に呼ばれて御前に罷り出たのは、津田重二郎永忠。歳はこの時数えで二十七。
十四歳の時に光政の児小姓に取り立てられ、その気質と才を愛されて重用されてきた若者である。
「その方を学校奉行に任ずる。この地に学校を建てよ」
「は、謹んで拝命いたしまする」
永忠はかしこまってそう答えた。
いや、彼とて困惑はある。
この地――備前国の東端、和気郡木谷村へは、光政の祖父・輝政と父・利隆の墓所を定めるという目的で視察に来たのだ。
それがいきなり学校などとは。
しかしその一方で、大仕事を任せられたという高揚感もあった。
主君に目を掛けられている若輩者に対し、老臣たちが舌打ちする音も耳に入ったが、永忠は気に留めなかった。
永忠は、併せて墓所造営の奉行にも任じられ、和気郡脇谷村(現備前市吉永町)の地に、和意谷墓所と呼ばれる大規模な墓所の造営も進めることとなった。
さらに、これをきっかけに土木関係の仕事を任されるようになり、新田開発や治水事業の数々も手掛けることとなった。
主従が木谷村を訪れてより四年の後、本格的に学校の建設が進められることとなり、同時に、延原と呼ばれていた地名も、「閑谷」と改められた。
その三年後には、茅葺き屋根の質素なものながら、講堂が完成し、この時すでに家督を息子・綱政に譲って隠居の身となっていた光政が視察に訪れた。
講堂で、子供たちが四書五経の講義を受けている。
庶民のための学校、といっても、すべての子供たちに基礎教育をほどこす、といった近代的なものではもちろんなく、領内の富農の子などを中心に、地域の担い手を育成するのが目的の学校だ。
講堂の脇に建てられた「小斎」という建物から、光政は講義のさまを満足げに眺めていたが、不意に、傍らに侍る永忠に話しかけた。
「居眠りをしている者はおらぬようじゃな」
「大殿、お戯れを」
永忠は赤面した。
彼が十六歳で光政の児小姓だった時の話だが、不寝番を勤めていた永忠は、不覚にも居眠りしてしまい、夜半に光政から今何時かと問われて、眠っておりましたので存じませぬと言い放ち、翌朝役目を終えると何事もなかったかのように暇乞いをし席を立った。
家に帰ってから、永忠は今更ながらとんでもないことをしでかしてしまったと蒼ざめ、震えが止まらなくなったものだが、光政からのお咎めはなく、かえって彼の豪胆さを称賛した。
実際、永忠に豪胆な一面があったのは確かである。
光政に目を掛けられ、土木事業においては大胆な発想力で数々の業績を残した彼だが、その異数の出世と、上役に対しても歯に衣着せぬ物言いで、多くの敵を作り、陰に日向に攻撃を受けることとなった。
それに屈しないだけの強さが永忠に備わっていることを、光政は見抜いていたのであろう。
「のう、重二郎よ」
「はい、大殿」
「学校はひとまず形を成したが、まだまだ完成とは言えぬ。幾百年先までも壊れることのない学校を建てよ」
「幾百年……でございますか」
「そうよ。学問は国の礎ぞ。幾百年の後も、この地で子供たちが学べるように、な」
「かしこまりました」
光政の言葉に、永忠は深く頭を垂れた。
「幾百年先までも、か……」
大殿のお帰りを見送り、一人になって、永忠は今一度呟いた。
元々、学校の増改築は以前から決まっていたことではある。
齢六十を超えた光政存命のうちに、一応の完成を見た上で、より本格的な工事を進める、という計画だ。
だが、何百年も壊れることのない建物ということになると、色々見直さねばならない。
永忠は大工の棟梁らも交え、何日もかけて話し合った。
「えっ? 瓦の下に土を盛らぬのですか?」
永忠から話を聞かされて、下役たちは驚いた。
この時代、屋根瓦を葺く際には、野地板の上に杉皮を敷き詰め、その上に大量の粘土を盛って、その上に瓦を葺く、という土葺き工法が一般的であった。
「うむ。屋根に土を盛っては、徒に重みが増して、地震に弱くなってしまうだろう」
「しかし、土を盛らねば、雨が降れば瓦の隙間から水がしみ込んで、野地板が朽ちてしまいましょう」
「それはその通りだ。だから、こんなものを作らせた」
そう言って永忠が取り出したのは、陶製の細い管だった。
「伊部の焼き物師に作らせたものだ。瓦と野地板の間にこれを通し、湿気を払う」
「ははあ、なるほど」
下役は、そんなやり方で上手くいくのだろうかと半信半疑ながら、永忠の指示に従い、工事を進めていった。
瓦についても、備前焼の中心地である伊部から職人を移住させ、閑谷焼を興して、生産を進めていった。
元々備前焼は、釉薬を全く用いず、高温で焼き固めているため頑丈で、「落としても割れない」と高く評価されていた。
その技法を用いて、通常五,六十年程度とされる一般的な瓦よりもずっと長持ちするものを作ろうとしたのだ。
また、地震対策としては、屋根以外にも、支柱を礎石に埋め込んでしまわず、乗せるだけにして、揺れを逃がす工夫をするなど、あまり地震の多くない備前の地にあっても、万一のことの無いよう、万全を期した。
そして、永忠が何よりも気を配ったのは、火災対策である。
講堂には冬場暖を取るための炉が設けられたが、薪の使用は禁じ、必ず炭火を用いるよう定めた。
また、閑谷の学校には、遠方からも生徒が来ており、彼らのための宿坊が設けられたが、煮炊きで火を使う宿坊と講堂との間には火除け山を築き、万一の火災に備えた。
さらに、何百年先までも学校を存続させるための工夫は、今日でいうところのハード面に留まらず、ソフト面にも及んだ。
学校田、学校林を設けてその収益を学校の運営費に充て、藩財政から独立させた。
そのことにより、学校の運営が藩の方針に左右されぬようにしたのである。
極論、池田家がよそに国替えになり、他家が岡山の地を治めることとなっても、学校が廃されることの無いように、というための方策であった。
こうして学校の整備を進めていった永忠であったが、その間、学校のことだけに専念していられたわけではない。
新田の開拓事業や、たびたび氾濫を繰り返す旭川の治水事業にも携わり、数々の業績を残した。
ことに、百間川と呼ばれる放水路を開削して、岡山城下を洪水の難から解放したことは、永忠の業績の中でも最も大きなものの一つである。
また、新藩主綱政の命で、金沢の兼六園、水戸の偕楽園と並ぶ三大名園の一つ、後楽園の造営にも携わった。
そうした中、天和二年(1682年)、光政がこの世を去った。
永忠は心の支えを失ったような思いに囚われたが、悲しみに浸ってばかりもいられない。
学校の建設を進めながら、常に永忠が考えたことは、亡き大殿ならばどのようになさるだろうか、という問いかけであった。
元禄十四年(1701年)、ついに閑谷学校の講堂が落成した。
最初にこの地を訪れてから、実に三十五年。
永忠の胸にも感慨がこみ上げるのだった。
なお、全くの余談であるが、この年は、お隣の播州赤穂藩主浅野内匠頭が切腹した年でもある。
その翌年、永忠は学校の敷地の東側に椿を植えた。
椿は光政が好んだ花だ。
徳川第二代将軍秀忠が好んだことで、以降、江戸および各藩でちょっとした流行を見た。
しかしながら、光政が椿を好んだ理由は、質素倹約を旨とした彼らしく、椿油が採れるから、といういささか即物的なものであった。
ちなみに、椿は花の落ちるさまが打ち首を連想させることから、武士はこれを忌んだ、というのは、幕末から明治以降に生まれた俗説である。
防火林としての意味も持たせた椿の生け垣を抜けた先に、供養塚が築かれ、そこには光政の髪や歯、爪などが収められている。
その前に跪き、手を合わせて、永忠は亡き主君に語りかけた。
「大殿、見てくださっておりますか。どうか、この学校を幾百年先までも、お守りくださいませ」
光政が夢に描き、永忠が体現した理想は、今も閑谷の地に、静かに佇んでいる。
――了。