今日のかくれんぼ 「年齢」
私は令和6年3月に二度目の勤めを退職した。他の大学は定年が70歳のところが多いが、本学の定年は66歳だったからである。就職したての頃は60歳定年の間近の人を見ると、大変な年寄りで大先輩に見えたが、いざ自分がその年になり、さらにはその年を超えると、思っていたほど年寄りでも、すごい先輩でもないことが実感できる。
私は母が21歳の時の子であり、その母が今年米寿を迎えた。ところが、母の頭の中では年齢が隠れんぼしているからややこしい。毎日、「今日は何日?」と聞く。何回も、何回も。いくたびも、いくたびも。
「いくたびも雪の深さを訪ねけり」
これは正岡子規が病床で詠んだ句である。脊椎カリエスで寝込んでいた子規は 家人から教えられて庭に雪が降っていることを知っていた。だが、自分は動けず、 どれぐらい積もったのかを行って直接自分の目で確かめられない。だからこそ何度も何度も雪の深さを尋ねて雪の情景を心に思い描くしかない。そんな子規の無念さと願望がこの句から読み取れるのだ。
しかし母は違う。単に忘れているだけなのだ。しかも聞いたことも忘れているからまた尋ねる。「さっきも言ったじゃない」と言うと、母は言う。「そうなの? 覚えていないな。やっぱり人間60歳を超えたらあかんね」と。そう言われている私は60歳をとうに超えているのだ。言っているあなたも88歳だ。母は自分が一番バリバリと頑張っていた50代で年を取るのをやめてしまっているようだった。人間の脳は自分に都合の良いように記憶するのだろう。それは幸せに人生を過ごすために神様が私たちに与えてくれたプレゼントなのかもしれない。とはいえ、やはり現実に戻って生きるしかない。母はお祝いにもらった黄色い茶碗を見て、「これはなぜもらったんだったかな」「88歳のお祝いでもらったんだよ」「じゃあ私は88歳?」と茶碗で自分の年齢に気づかされている。それでもよく「もう私は82歳を超えた。四捨五入すれば90やで」という。四捨五入の意味がわかっているのか分かっていないのか、半分正解で、半分間違っている。
私が将来いつか母のようになった時、私は何歳の自分が頭に残るのだろうか。 それはそれで楽しみだが、不安でもある。