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がやがやとした人々の声に目を開くと、そこは見慣れた朝の光景だった。ただ今日はいつもと違って人が少ないように思う。いつもはもっと人が多いから歩くのも大変なのに、今日は少し楽に歩けるから。
そう思いながら、人と人の間を抜けて階段を登り始める。
「ーー! おはよう」
後ろから右肩をぽんっと軽く叩かれ、そちら側を見ると笑顔の友人がいた。
「っ……」
なぜだかわからないけど、ぞわっとした何かが身体中を走り回る。
「お、はよう」
努めていつものように返すけれど、声が少し震えてしまった。それに気づいた彼女は首を傾げながら私に問いかけた。
「もー、どうしたの? 何かあった?」
「ううん。ぼーっとしてたから、ちょっとびっくりしちゃっただけ。ごめんね」
「え! それはわたしこそごめん! ーーの後ろ姿を見つけたから思わず嬉しくなっちゃって」
そう言った彼女の表情がいつもと違った。私は開きかけた口をきゅっと閉じて、逃げるように視線を彼女から逸らす。
「……」
頭の中を占めるのは、彼女のにたりとした嫌な笑み。悪意や裏があるようなその笑みに、彼女のそばにいてはいけないと頭が警報を鳴らした。
「あ、私ちょっとお手洗いに行ってくる。もし電車が来ちゃったら先に行ってて」
「うん。わかった。あ、ねえーー」
「なに?」
「どうしてわたしから逃げるの?」
低くねっとりと耳に残るような音が、私の動きをとめる。そして次の瞬間、私の体が浮いた。
「え……っ」
見える光景の全てがとてもゆっくりと見える。私はさっきまで話していた彼女に視線を向けた。すると彼女は歪なにんまりとした笑みを私に向け口を開いた。
「あは。そーいう顔になるんだ。間抜け面だね」
その言葉に、私は彼女に突き落とされたのだと理解した。
「なんで……」
私はただただ彼女を見つめ問いかける。その声はあまりにもか細く震えていた。だから彼女に私の声は届いていなかったかもしれない。だけど彼女は言った。「わたしさあ、ずっと気になってたことがあったんだ。ほら、漫画とかで仲のいい友達に裏切られた瞬間の主人公の顔。あれを現実で見てみたかったんだよね。だからあんたを選んだ。だってわたしにとってどーでもいい人間だったから」と。
転がり落ちていく私の耳に、彼女の声と言葉だけがなぜかはっきりと聞こえた。そして鈍い音と生暖かい何かが自分の中から流れ出ていくのを感じながら、私の世界は暗転した。
「っ……!」
意識が勢いよく浮上し、ばっと目が開く。そんな私の視界に映ったのは、開かれた窓から入ってくる風で白いカーテンがふわっと揺れているところ。そして白いカーテン越しに見える青空。
「ゆ、めだ……」
そう。今のは夢。ただの、夢。
前世にあった出来事ではあるけれど、でも今の私にとっては久しく見ていなかった夢だ。
「っ、はあ……」
夢から覚めた私の心臓は激しくその存在を主張し続けている。そのせいで呼吸も荒いし、嫌な汗もかいている。
ふーっと呼吸を整えながら視線を動かす。そして回りを確認し終えた私の体からは力が抜けた。
「イリス、おはよう。起きてるか?」
控えめなノックのあと、そっと開かれた扉。そこからアスレイが顔を覗かせた。そして私と目が合うと、すこし難しそうな顔をした。
「アスレイ……」
「どうした。嫌な夢でも見たか? それとも体調がよくないか?」
「嫌な夢を見ただけ」
「そうか」
部屋に入ってきた彼は私を抱き寄せ、あやすように背中を優しく叩かれる。
アスレイの温もりと彼自身の香りにほっと息を吐く。とくんとくんと規則正しく動くアスレイの心臓に私の心臓も落ち着きを取り戻し始めた。
「あ……」
「どうした?」
「朝の挨拶を忘れていたから。おはよう、アスレイ」
きょとんとしたアスレイは柔らかく笑い、もう一度「おはよう」と言って私の額にそっと口づけを落とした。
「っ……!」
びゅんっと風を切る音が間近で聞こえたと思ったら、額に突然のぶにっとした衝撃に少し後ろへと傾く。そんな私をアスレイはすかさず支えてくれて、私は額にあたったぶにっとしたものの正体を確認する。
艶やかでぷるんとしたフォルムの真っ赤なハートが動き回りながらその存在を主張していた。その姿に思わず笑い声が漏れる。
「ふ、ふふ、あははっ。あなた元気で可愛いわね」
言いながら真っ赤なハートに触れてそっと撫でる。ぷるぷると震え動くハートに頬が緩みっぱなしだ。
「本当に可愛い」
「イリス」
「なあに?」
「俺はイリスが可愛い」
「ありがとう」
笑顔で伝えると、アスレイは柔らかな顔で頷いてハートごと私を抱き寄せた。
「ふふ、とっても幸せだわ」
私もアスレイとハートを抱き締め、そう想いを言葉にした。
***
朝の光景が色鮮やかに流れ「ああ、帰りたい」と思う。
あの優しく穏やかな場所へ。
優しくて温かい、愛しい人のところへ。
「帰るために、頑張らなきゃ……」
気合いを入れるように呟くけれど、体と魔力が思うように動いてくれずただただ地面に向かって落ちていく。
視界に映るのは、私の体から出ていく血。そして愉しそうな表情を浮かべ私との距離を縮めてくる負の者。
今日は最大級の厄日ね。
久しく見ていなかったあの夢に続いて、囮をしている最中に負の者が分離を覚えるという異常事態が発生した。そして数の多さにココロを全て使ってしまった。アスレイと出会う前のように動いたけれど、さすがに数が多すぎて捌ききれなかった私は血を流しながら落下している。
あの夢は……。
「きっと、こうなることを予期していたんだわ」
『きれいナチかラ』
『モラうね』
『チャントつかっテあげる』
負の者たちはそう言って、私に手を伸ばしてくる。そして体のあちこちがその手に捕まり、大きく開いた口が私を食べるために近づいてくる。
「……っ」
なんとか逃れようと一生に一度の気合いで体を動かそうとするけれど、やはり動いてはくれない。だけど諦めるわけにはいかないの。
だってアスレイに言ったから。
『私はもう自分勝手な悪意のせいで誰かをおいて逝きたくないの。だから、私はおいて逝かない。そのための強さ』
体を動かすのは諦める。その代わり全部の意識を魔力に集中する。
「っ……」
いつもと違って血が沸騰するような感覚。けれど練り上げた魔力の純度はいつもより遥かに高く澄んでいる。
『なにコノマリょく』
『きれいキレイ』
『すゴくほシイ』
負の者たちの喜ぶ声が聞こえる。
「あなたたちに私はあげない」
そう言って練り上げた魔力を放つ。その衝撃で負の者たちの手は私から離れたけれど、私は先程よりも早く落ち始める。
「アスレイ、ごめんなさい……」
落ちていく私の意識は急速に暗闇へと招かれ暗転した。