誰がためのハッピーエンド
「そんなことではとても、とても……届かないではないか!」
「ぐっ、ぁあああ!」
「まだ、まだ、まるでまだだというのに!」
その剣先が俺の表面を切り裂いたからと、その雷が俺をわずかに痺れさせたからと、いったいそれが何だという。
「おまえ、ほんとうに、俺を倒す気があるのか?」
届くわけがない。
勇者は、魔王を倒せない。
「……ああ、決まっている。俺はおまえを倒す!」
「どうやって!」
「うぐッ……!」
「どうやってだ、勇者よ! おまえが、どうやって、この俺を!」
笑いたくなるほどの弱さだというのに、どうしてそんなことが言える。先日まで気に入っていた大口に、腹が立って仕方がない。
「それでも……っ」
できやしないくせに。
「それでも俺は、おまえを……倒す……おまえを倒す、のが、俺だ……」
「……」
勇者は倒れ伏して動かなくなった。
俺はぼんやりとそれを見下ろす。苛立ちはゆっくりとおさまっていき、かわりに憐れみを感じた。
「かわいそうに」
魔物にありえない感情であり、俺はそれを知っているだけだ。いや、知っているのだから、持っているのと同じか。わからない。
「おまえは勝てやしないんだ、永遠に」
自分の言葉に悲しくなってしまった。
やはり俺は魔物でなくなってしまったのかもしれない。人間の記憶を取り戻してしまったときから。
「永遠に」
だがやっぱり俺は魔物かもしれない。
俺が哀れんでいるのは、悲しんでいるのは自分自身のためだった。だって勇者が弱いのだ。話にならないほど弱い。俺に全然まったく敵わないのだ。少しずつ強くなったって時間が足りない。つまり使った時間は無駄だ。
「……なあ」
俺は勇者を踏んづけた。
ため息が出る。虚しい。
(虚しい)
あまりに虚しい。虚しい虚しい虚しい虚しい。いったいこれからどうしろというのだ。勇者はもっと年を取り、弱くなっていくばかりだろう。そうしたらこれから何が楽しいっていうんだ。
「なあ、おい、勇者」
苛立ちが蘇ってきた。
なんだよ、勇者のくせに死体ぶりやがって。さっきの大口はどうした。いつになるんだ、俺を倒すのは、来世か?
「……はあ」
仕方なく俺は屈んでやって、その耳元で囁いた。
「おまえが立てないなら、アンシーちゃんを殺そうか」
ああ、そうしよう。どうせ勇者は役に立たなかったのだから、せめて魔素を回収しないといけない。でなければ、あまりにも損だらけの話だ。
そう頭では思うが、正直なところどうでもよかった。勇者がこれ以上強くならないなら、すべてがどうでもよかった。
「ひどく殺そう。かわいそうに殺そう。なかなか死ねないのがいいな。死んでしまえばもう、恐れることもできないのだから」
ぴくりと勇者の体が動いた。
「まずあの細い腕をもごうか」
残念ながらアンシーちゃんは距離を取っているので、すぐにそんなことはできない。そのためには勇者のそばを離れる必要がある。
それは、やだなあ。
早く起きろよ。
「それとも喉を裂こうか。あのかわいい声が聞けなくなるな。勇者ルカ、どっちがお好みだ?」
「……ッ」
歯ぎしりするようなうめきが聞こえた。
「腕か、喉か。それともおまえの命が大事か?」
「……、……っ」
ゴウゴウと耳障りな、まともでない息の音だ。立ち上がってはいけない人間だ。自分の体を痛めつけながら、さあ、どうする。
どうするんだ、勇者。
魔王を倒せない勇者は。
「大事だろうな。神の選びし勇者のためであれば必要な犠牲だ。ひとりの女が死に、勇者が目覚める」
「や……め……」
「まあ、ただの無駄死にになる可能性が高いが。さあ」
俺は優しく、甘い気分でささやく。
「殺してしまおう」
「やめろぉおおおおおお!」
「……おお」
突風がふいた。
俺はそれを心地よく浴びて、数歩引いた。立ち上がる勇者の姿をしっかりと目に収めたかったのだ。
傷つきながらも立ち上がる。
誰かのために。
(ありきたりで、誰でも考える、だが現実にはありえない物語だ)
それが目の前にある。勇者の、人間の立ち上がれるはずのない体は、確かに地を踏みしめる。諦めない腕は剣を握る。
そして風のように走るのだ。
「……ふっ」
俺は小さな息を吐き出した。
腹に押し込まれた剣先のぶん。
(悪かったなあ……)
思い合う男女ほどの距離で、勇者の瞳が見つめている。強い目だ。キラキラと輝きを失わず、自分自身を信じている。
(間違いだった)
ここに至って認めざるを得ない。
(おまえは勇者ではなかったよ)
俺は間違えてしまったのだ。もっと強くなければ、もっと才能がなければ、魔王を倒せるはずなどなかった。
今もこの剣を引き抜いて、ほんのわずかの力で俺は勇者を殺すことができる。
(間違いに付き合わせてしまった)
人間の人生なんて塵みたいなものなのに、すっかり俺に使わせてしまった。楽しませてもらった。お返しするものがない。申し訳ない話だ。
だから剣を引き抜くのも忍びなく、俺は勇者をしばらく見つめていた。
(つまらないなあ……うん、そうだな)
どうせ俺はやる気を失ってしまった。もう、なにもかも面倒くさい。ちょっと、しばらくふて寝したい。
そうしよう。
もう四天もいないんだから、ちょっとくらいサボっても起こしに来る奴いないだろ。
「ぐふっ」
俺は血を吐いてみた。
なかなか上手くできていたと思う。勇者が驚きに目を見張る。俺は微笑んで、幸福あれと心のなかで祝福した。
「見事だ。……だが、」
できれば目を覚ます頃には、本当の勇者が生まれているといいなあ。
「一時の平和をせいぜい楽しむがいい」
いや、ルカくんも悪くなかったんだけどな。ほんとに巻き込んで悪かったな。ここまで強くなってくれてありがとう。つかの間の平和は俺からの褒美だと思ってほしい。
ぺちぺちと勇者の頬に触れる。初めて見た頃の丸っこさをすっかりなくしてしまった頬だ。
やっぱり、大人になったなあ。
「覚えておけ。いずれ私は戻ってくるぞ」
ここは俺より私だよなと思ってみたが、なんか今更な気もした。まあ、いいや。戻ってくるからな。それまでに頑張って勇者を育てようぜ、人間。
俺は心で願いながら魔王城の下に穴を開けた。深い穴だ。魔素の湧く源泉に近いところ、人間がたどり着いたことのないほど深い地下だ。穴掘りが得意で良かった。
「……ではな」
楽しかったよ。
力尽きた感じで俺は穴へと落ちていく。
「お、まえ……っ!」
勇者が手を伸ばしてくる。悪いがサービスはここまでで、捕まってやるわけにはいかない。これでさようならだ。
(あ)
じゃない、まずいまずい。
忘れ物を思い出した。
俺はちょっと慌てながら転がっていたアンシーちゃん、というかソヒルを掴んだ。これはちゃんと返して貰わないといけない。
しっかりとソヒルを抱えて、今度こそ即席の寝床へ。
「魔王様」
ソヒルが囁いた。
「腹に子がいるのです」
は?
もうすっかり、さあ寝ようという気分のところに、俺は意味不明な単語を聞いた。
(はらにこが?)
なんだそれ、どういう意味だっけ。言葉ってのは全く難しいな、ええと、つまり。
「勇者ルカの子が」
「…………!」
「ここに」
雷に打たれたよりも強い衝撃によろめいた。なんだって?
(子供?)
俺はソヒルの腹を見た。ふっくらした女の腹の奥に、確かに魔素を通さない生き物を感じてしまった。
子供。
子供だ!
ありえないこと、ではない。いや、ありえないことではある。だが誰もやらなかっただけで、方法はありそうだ。
魔素で子宮をつくればいいんだし、それが難しくても、たとえば人間の女を殺して、その腹を奪ってやればいい。普通そんな気持ち悪いことしないけどな。そこまでやるか?
「は……ははっ、そうか、そうか!」
笑ってしまう。なんてことだ。言われてみればそれこそが一番の人質だった。俺は次の勇者を求めているのだから、これではソヒルを食べることはできない。
勇者の子。そして魔素の体の中で育てられていく子だ。
「おまえの勝ちだ」
すっかりやられてしまった。
おまえ、俺なんかより俺のことがわかってるんじゃないか?
思わずソヒルを胴上げしたくなったが我慢した。キスしたくもなったがそれも我慢した。勇者の女に手を出してはいけない。
かわりに俺は紳士的にわきまえて、その手の甲にキスをして離れた。
「いい子を産めよ」
そして最後の命令をして、魔王城の地下のそのまた奥の奥に埋もれて眠りについたのだった。次の勇者を心から楽しみに。




