第三景 小説家になろう(現代)
人類の文明は、月輪への飽くなき探求心から生まれたと言っていい。
だが皮肉にも、その月輪の存在こそが宇宙開発への障害となってしまう。
──人類は、月輪によって地球圏に閉じ込められてしまったのかもしれない。
マイは、もう人気のなくなった放課後の廊下を、教室に向けて必死で走っていた。
図書室での委員会の仕事が終わり、帰り支度をしている時に気づいてしまったのだ。鞄の中に、秘密のノートが入っていないことに。
もうっ、先生のせいだ! 図書室に工事の業者が来るから鍵を開けておけって急かすから、机の中身をあわてて鞄に入れることになっちゃったじゃない!
きっと、あの時に落としてしまったんだ。うわぁ、どうしよう、あれを誰かに見られてしまったりしたら──恥ずかしくて絶対に死ねるっ‼
それは、マイがずっと密かに小説を綴ってきたノートだった。いずれはしっかり推敲して、どこかの賞に応募してみようとは思っていたけど、今は勢い任せにひたすら書き殴っている段階なのだ。
そんな中途半端なものを誰かに見られるなんて、絶対に耐えられない。
しかも、書いているのがおよそ年頃の女の子が好むようなジャンルじゃない。むしろ男の子が大好きそうなジャンル──空想科学小説なのだ。
成績は上位だが運動が苦手で、冴えない地味子──それがクラスの中でのマイの立ち位置だ。目立つのは苦手だし、派手に遊んでいる子たちに無理につき合わされるくらいなら、別に今のままでいい。
でも、もしあれが誰かに見られてしまったら──想像しただけで寒気がする。たぶん、変人扱いは確定。もしかしたらいじめにエスカレートしてしまうかも。
お願い、誰にも見つからないで! もうほとんどの人が帰りかけていたから、誰かに気づかれる可能性は低いはず。お願いだから、そのまま床の上に落ちていて──!
でも、現実はあまりに残酷で──。
教室に近づいたところで勢いを止め、息を殺して教室の中をそっと覗いてみると、ひとりの男子がマイの机に腰かけて、あのノートをじっくりと読んでいたのだ。
しかも、よりにもよって最も秘密を知られたくない、クラス一の人気者のハルト君が──!?
あまりの出来事にマイが完全に固まっていると、視線に気づいたのか、ハルトが顔を上げてこちらを振り返った。
「あ。これって君が書いたの?」
「え──ええとそれはその、なんといいますか──」
マイがどう答えるべきかワタワタしていると、ハルトは事情を察したのか、にっこりと笑顔を見せてきた。
──ああ、やっぱりハルト君は格好いいなぁ。でも──もう終わった、私の初恋。ちーん。
間もなく浴びせられるだろうからかいの言葉を覚悟して、マイががっくりとうなだれていると、意外にもハルトは明るい声を上げたのだ。
「凄いじゃん、これ! 何て言うか、展開が熱いし、それに発想がめちゃめちゃ面白いよ!」
マイが書いていたのは、有人宇宙ロケットの開発に情熱を燃やす男たちの物語だ。
舞台は近未来の地球。
だが実際の地球とは違う。その地球には月輪がなく、大きな衛星がひとつあるだけなのだ。
現実の地球では、人類は早々に宇宙開発をあきらめてしまった。古代、人類が数学に目覚めるきっかけとなったあの月輪が、宇宙開発の前に大きな障害となって立ちはだかってしまったのだ。
──かつて、より遠くとの連絡のために、赤道上空に電波を中継する人工衛星が打ち上げられた。それは月輪の内側を回る軌道だったので、月輪を構成する大量の岩石群と衝突する可能性は低かったのだが、まったく使い物にならなかった。
地上から発せられる雑多な電波が月輪によって乱反射され、人工衛星との通信に大量のノイズを混入させてしまうのだ。
だが、もし地球に月輪がなく、人工衛星が自由に打ち上げられるようになったら、どのようなことが可能になるのだろう。
今よりずっと遠くまで通信は届くようになるし──測量をしなくても、衛星からの写真で地図が簡単に作られるかもしれない。
そうだ、台風の発生をいち早く発見するなど、気象の分野でも活用できるかもしれない。
マイの小説は、そんな空想から書き始められた。
そして、もし月輪がなかったら、人類は必ず宇宙を目指すはずだ。第一目標はもちろん衛星。
現実には、月輪の外側にロケットを飛ばすのは計画段階で凍結されている。最も効率的なのは赤道上から真上に打ち上げることだが、そこには月輪がどっしり待ち構えているのだ。
それを避けるために角度をつけて打ち上げると、燃料が余計にかかる。さらに、狙った軌道に乗せるためには繊細な制御が必要になるが、地上から電波でコントロールすることも出来ないのだ。
かといって、月輪がなかったとしてもそう簡単に打ち上げができるわけでもないだろう。
なにしろ莫大な費用がかかるし、時間もかかる。
衛星にたどり着いたとしても、投資に見合うだけの成果があるかどうかもわからない。
──なら、大国同士のプライドをかけた競争、という筋書きはどうだろう。
無駄遣いを許さないという国民世論の反発や、野党の妨害などもあるかもしれない。
そんな様々な思惑に翻弄されながらも、夢に向かって努力する男たちの群像劇を、マイは目指していたのだ。
「へえ、そうやって発想するんだ。面白いなぁ」
ハルトと並んで帰りながら、マイはずいぶん先の展開の構想まで喋らされていた。
遠くから憧れていた時にはわからなかったけど、ハルトはかなりの聞き上手なのだ。
もともと口下手で、おまけに緊張しまくっているマイがこれほど会話を続けられたのは奇蹟だ。
「しかし、小説家になりたいって目標があるのは凄いよ」
「そ、そんな!? 私なんてまだ何の実績もないし、ただ我流で書いているだけで──」
「でも、ちゃんと努力してるじゃん。実際、凄く面白いし」
「そんなこと言ってくれるのはハルト君だけだよ。──って、まだ誰にも読ませてないんだけど」
「あ、じゃあ俺がファン第一号ってことだな。書き上がったら、読者第一号もよろしく」
ああ、もう。またサラっとそんな殺し文句を──。
「うーん、それにしても、月輪のない夜空かぁ」
ハルトが伸びをするように、暗くなり始めた空を見上げた。
「想像したこともなかったけど、どんな風に見えるんだろうな」
──あ。
ふいに閃いた。
マイは小説の冒頭に、ここが現実とは違う架空の地球だということが一目でわかる文を入れたいと思っていた。
色々書いては消してを繰り返してきたけど、どうもしっくり来ていなかったのだ。
でも今のハルトの呟きで、何か書き出しが決まったような気がする。
『もし地球に月輪がなく、衛星がひとつだけ浮かんでいたとしたら。
人はどんな夜空を見上げ、そしてそこに何を思うのだろうか──』