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第二景   異端審問(中世)


数学の驚異的な進歩は、測量技術や建築技術の発展にも大いに貢献した。


しかしその一方で、いつしか進歩が停滞してしまった学問があった。──『天文学』である。



「ライモス・カルバーロ、出ろ。教皇猊下たちがお呼びだ」


 横柄な役人に促されて、ライモスは五日ぶりにかび臭い部屋から出ることを許された。


 ──ライモスが先年発表した学術論文の内容について、確かめたいことがあると教皇庁から呼び出されたのが十日ほど前。五日かけてはるばる王都までやってきたのだが、到着するなりこの部屋に押し込められてしまったのだ。

 伝染病予防のための隔離なのは納得できる。だが、なぜか天体観測の全ての道具を取り上げられ、『規則だから』の一点張りで観測の許可が下りなかった。

 ──くそっ、天体観測には継続した観測こそが何より大事なのに。無知無学な小役人め、後で絶対に責任を追及してやるぞ。だいたい、神官である自分を呼び捨てにするとは何たることだ。

 そんなライモスの苛立ちに気づいたのか、その役人は歯の欠けた口元を歪め、下卑た笑みを見せてきた。


「ああ、これはご無礼をいたしました、神官様。

 ──今はまだ『神官様』なんでしたっけね」


 『今はまだ』だと? どういう意味だ?

 ──まさか、これから行われるのは論文の『査問』などではなく、神職としての是非を問われる、あの苛烈極まりない『異端審問』なのか⁉






 連れていかれた広間では、すでに教皇や司教たちとおぼしき十人ほどの老人たちが、一段高いところに並んで座っていた。

 ライモスは彼らの視線の集まる広間の中央、証言台の前に立たされた。しかも、その後方には三人の完全武装した聖騎士が控えている。もう完全に被告扱いと言っていい。

 やがて、司教たちの末席にいる男が立ち上がった。

 彼の前には、ライモスから取り上げた大きな鞄が乗せられている。天体観測道具や書きかけの論文の詰まった──いわばライモスの半生の全てともいえるようなものだ。

 その司教が鞄をこつこつと拳で叩き、厳かに口を開いた。


「ライモス・カルバーロ。貴殿が発表した学術論文は読ませてもらった。

 ──いや、実に興味深い内容であったぞ」


 その口調に、明らかに激しいいらだちが混じっているのがわかる。


「まさか神官の地位にある者が、聖典の内容を否定することを公言しようとはな!」

「お待ちください! 私はそのようなことは──!」

「抗弁は結構だ」


 反論しようとするライモスの言を、教皇の穏やかな声が遮った。


「ライモス・カルバーロ。貴殿がまことに神学の徒であるのなら、聖典にある天地創造のくだりを暗誦してみせられよ」


 そのようなことは雑作もない。幼きころより数え切れないほど口ずさんできた文言だ。ライモスはよどみなく言葉を発する。




 神が七日間かけてこの天地を創りたもうたこと。

 光を生み出し、地球を創り、太陽を創り、生きとし生けるもの全てを創り、人間を創りたもうたこと。

 そして最後に、この地上にあまねく自らの慈愛を届けるべく、地球の周りに『月輪』を浮かべたことを。




「──左様。これこそが真理である、ライモス」


 先ほどの司教が立ち上がって、声を張り上げた。


「太陽も星々も、神が創りたもうたこの聖なる大地・地球を中心に回っておるのだ。

 それを、言うに事欠いて『地球が太陽の周りを回っている』など、何と罰当たりな──!」


 その司教の言葉に賛同するように、他の司教たちも口々に『この背教者め!』『異端だ!』などの罵声を浴びせてくる。


「お待ちください! 数学の素養のある方にはご理解いただけるはずです!

 惑星が突然逆に進むという不可解な現象も、地球が他の惑星同様に太陽の周りを回っていると想定すれば、充分に説明がつくのです!

 お願いです。数学の知識のある方に、私の論文を査読させてください。必ずや、その正しさが理解していただけるものと──」

「無用だ、ライモス」


 ライモスの懇願に対する司教の応えは、冷たいものだった。


「この地球が宇宙の中心ではないなどということがあり得ようか。それは神に対する冒涜以外の何物でもない。

 もし数学で計算した結果がそうなってしまうのだとしたら、それは()()()()()()()()()()()()()

『その通りだ!』『数学者など信用できん!』


 またしても遠慮のない罵声が次々と浴びせられるが──それを聞いているうちに、ライモスの心中に煮えたぎるような怒りがふつふつとこみ上げてきた。






 ライモスの論文執筆に協力してくれたのは、若く貧しい在野の数学者たちだった。


 彼らは何の見返りも求めず、ライモスの仮説を証明するための計算などを請け負ってくれた。ただ『世の理を知りたい』と願う純粋な情熱から、何日もかかるような複雑極まりない軌道計算を喜んで引き受けてくれた。

 それどころか、ライモスがより精度の高い観測結果を得られるよう、新しい望遠鏡を作るためになけなしの金をかき集めてくれたのだ。


 場末の安酒場で酸っぱい安酒を酌み交わしながら、数学への情熱に燃える彼らと激論を交わした日々の、何と賑やかで尊かったことか──!


 そんな彼らの血のにじむような努力の賜物を、ろくに検証もせずに間違っていると決めつけるなど──こいつらはいったい、何様のつもりなんだ⁉






「──諸卿にお尋ねいたします」


 手を挙げてのライモスの発言に、広間の喧騒がすっと静まっていく。

 一度内心で爆発しかけた怒りの炎が、今は静かで冷たい青い炎としてちろちろと揺れているのがわかる。

 

 ──どうせ結論は始めから決まっているのであろう。自分の論文を査読もせずに間違いだと決めつけたように。

 ならば、こんな連中に何の遠慮がいるものか。とことん冷静に理詰めで反論して──連中の心に二度と抜けないくさびを打ち込んでやろうではないか。


「聖典の天地創造のくだりを見ても、その他の部分を見ても、『太陽や星が地球の周りを回っている』とは一言も書かれていないはずですが」 


「な──何を馬鹿なことを! 神が創りたもうたこの地球が宇宙の中心であることなど、自明のことで──」

「それも書かれていません」


 冷たい声で司教の反論を一蹴すると、ライモスは胸を張って司教たち全員の顔を見回した。


「冷静にお考え下さい。地球が太陽の周りを回っていると考えること自体は、聖典の記述と何ら矛盾するものではありません。

 いえ、むしろ『全ての天体は地球を中心に回っている』『地球が宇宙の中心である』という考えこそが、聖典にも記載されていない、教皇庁独自の解釈にすぎぬのではありませんか──」 

『黙れ! 貴様、教皇庁の権威を愚弄する気か!』『この異端者めが!』


 またしても広間中から罵声が浴びせられる。ライモスは冷静さをかなぐり捨てて、激情にまかせて遠慮のない大声を張り上げた。


「思い上がるなぁっ!」


 口汚い言葉に、司教たちが一瞬たじろぐように声を失う。その期を逃さず、ライモスは主張を続けた。


「あなた方は、神の叡智の全てを理解しているおつもりなのか? たかが人間の分際で、全宇宙を創造した神の叡智を完全に理解しているとでも? 

 ──それこそ、とんでもなく傲岸不遜な『思い上がり』、神に対する冒涜ではないか!」

「それは──」


 またあの司教が口を開きかけたので、ライモスは彼の顔を指差して叫んだ。


「あなたは直に神に会ったことはあるのか! ──隣のあなたは? あなたは!?

 神から直接にその意図を聞いた者などこの世にひとりもおりますまい。

 ──ならば、我らのすべきことは決まっております。宇宙のあるがままの姿を謙虚に受け止め、そこから神の意図を読み解くことです。

 始めから神の意図はこうだと決めつけ、それにそぐわぬものを見ようとしない。──それこそ神のご意思をないがしろにする愚行ではないですか!」






 しばしの沈黙を破ったのは、教皇のしわがれた声だった。


「なるほど。そなたの言い分はわかった。自分は聖典の内容に背くことは言っていない、『異端』ではないということだな?」

「はい、おっしゃるとおりです」

「では、これは何だ?」


 教皇が自分の座る席から掲げてみせたのは、ライモスがこれから論文に仕上げようと考えている観察記録だ。

 それは、ライモスが最新の望遠鏡で発見した新事実──『()()()()()()()()()()()』ということを記したものだ。

 これこそ、教皇庁の頑迷な思い込みを改めさせる最大の武器になるとライモスは密かに期するものがあったのだ。


「そこに書いてあるとおりです! 自分は、土星にも月輪がかかっていることをこの目で見ました。他にも何人もの者が確認しております。

 今の時期なら、ちょうど夜中に土星が月輪の蝕のあたりを通ります。皆さまにも一度見ていただければ──」

「その必要はない」


 教皇は冷たく言い放ち、末席の司教に目配せをした。その司教がライモスの鞄を開けてさかさまにすると、大量の紙束とともに、無残に叩き潰された望遠鏡の残骸が転がり落ちたのだ。


「──!?」

「その望遠鏡は、決してあってはならないものを映し出した。よって『異端』と裁定を下し、破却した」

「──な、何てことを……」


 ライモスがうわ言のように呟きながら、望遠鏡の残骸にふらふらと力なく歩み寄る。


「あなた方は──こうまでして、事実から目を背け続けるおつもりなのですか、猊下(げいか)!?」

「わかっておらぬようだな、ライモス」


 教皇の声に、苛立ちの色が混じる。


「神殿とは真理を追い求めるところではない。迷える人々を救うところだ。

 人々をいたずらに不安がらせるような事実など──教皇庁には必要のないものだ。


 さあ、ライモス、そろそろ終わりにしよう。

 自説を取り下げ、土星の話を知っている者たちの名を教えるというなら、異端認定は勘弁してやろう。何、その者たちに危害は加えん、口止めをするだけだ。

 それが嫌だというなら──」

 

 教皇が顎をしゃくり上げると、背後の聖騎士たちが動く気配がした。おそらく身柄を拘束し、拷問してでも吐かせるつもりなのだろう。

 危害を加えないなど真っ赤な嘘だ。こいつらはためらいなく証人たちを殺すだろう、あの望遠鏡を打ち壊したように。そんなことはさせてなるものか。


 ライモスは意を決し──近づいてくる聖騎士のひとりに全力で体をぶつけた。

 その者が一瞬よろめいた瞬間に槍を奪い取り、鎌首の辺りを両手で持って、刃先を自分の首筋に当てた。


「やめろ、ライモス!」

「はっ、誰が言うものか! 彼らこそ、純粋に神のことわりを知ろうとする真の神学の徒だ!

 彼らを売って自分だけ生き延びるくらいなら、『異端者』として死ぬ方がマシだ!」


 疲労からか、急に体から力が抜けていく。ライモスは残った力を振り絞って声を張り上げた。


「だが、覚えておけ!

 いつか、彼らの見つけた真実が世を席巻する日が来る!

 教皇庁の欺瞞(ぎまん)が白日の下にさらされ、お前たちの過ちが糾弾される日が必ず来るぞ!」

 

 そしてライモスは、おのれの喉笛をかき切る直前に、天を見上げて叫んだ。


「例えどれほど隠そうとしても──それでも地球は回っている!

 土星にも月輪は存在するのだ!」

 


夜間でも太陽の光を反射し続ける月輪の光害によって、中世の天体観測はかなり制限された。

月輪が地球の影に入る『蝕』の方向しか、満足に観測することが出来なかったのだ。


しかし、やがて工業技術の進歩によって高性能な天体望遠鏡が普及し、土星にも月輪が存在することが広く知られ始める。


それでもなお、教皇庁は頑なに土星の月輪の存在を認めようとはしなかった。

──教皇庁が正式に過ちを認め、ライモス・カルバーロに謝罪してその名誉を回復するまでに、数百年もの歳月を要したのである。



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