第一景 旅立つ男(石器時代)
※ 武 頼庵(藤谷 K介)様主催『月のお話し企画』参加作品です。
もし地球に『月』がなく、土星のような『輪』があったとしたら。
人はどのような夜空を見上げ、そしてそこに何を思うのだろうか──。
グラドは、明日からの旅に持っていく荷物をもう一度確かめていた。
槍先は新しい石に取り換えた。弓矢の鏃も、新しいひもでしっかり結び直した。
荷物は最低限にして、食料は狩りで調達することにしている。若い頃より多少体力は落ちてきたものの、まだ部族一の狩りの腕は健在だ。愛犬のラグは幼いが、獲物の誘い込み方などは教え込んである。あと十年は問題なかろう。
それまでに旅が終わるか、自分かラグの体力が尽きるのが先か──まあ、その時はその時だ。
「──勇者グラドよ、邪魔をするぞ」
ふいに、小屋の外から声がかけられた。族長オルバの声だ。
「かまわん、入ってくれ」
そう返事をすると、オルバが入ってきて囲炉裏の前に腰を下ろした。グラドの荷に気づいたのか、その眉間に皺を寄せる。
「どうあっても行くのか、グラド」
「行く。もう決めたことだ」
グラドの素っ気ない答えに、オルバが大きく溜息をついた。若い頃から、旅に出たいというグラドをずっと思いとどまらせてきたのだが、今回ばかりは止められそうにもない。
「なあ、族長。昔おぬしに説得されたように、部族に俺の血筋は残したぞ。息子二人にも狩りの技は教え込んだ。部族への義務はきちんと果たしたつもりだ。
妻も流行り病で先に逝ってしまった。そろそろ──俺の思うようにさせてくれ」
グラドの言葉に、オルバがもう一度溜息をつく。
「わかった、もはや止めはすまい。
だが──ここからは『族長』としてではなく、幼なじみの親友として訊ねるぞ。
部族を捨ててまで、どこへ何をしに行こうというのだ。それにどれほどの意味があるのだ」
その問いには答えず、グラドは小屋の外にオルバを誘い出した。言葉だけではうまく説明できる気がしなかったからだ。
「──オルバ。あれが何か、考えたことはあるか?」
そう言ってグラドが指差した先にあるのは──南の夜空全面をゆるやかに弧を描きながら横切る、視界に収まりきらないほど巨大な白い『虹』だ。
いや、形は虹に似ていて、幾重にも細い筋が入って見えるが、鮮やかな色彩はない。
東の地平からぼんやりと光を放つように立ち上がり、途中で急に明るさを減じながら南の大山脈のはるか上を通過して、また急に明るさを増しながら西の地平へと沈んでいく──。
頂点の辺りは夜の闇に溶け込むほど暗くてよく見えないのだが、それが通るところだけ後ろの星々が全く見えないので、おぼろげに形がわかるというところだ。
昼間にはもっと全体の形もはっきり見えて、威圧感すら感じさせるのだが、人々がそれを意識することはあまりない。
誰もがその圧倒的な存在感に『いつかあれが落ちてくるのではないか』という言い知れぬ恐怖に襲われる時期を経験するが、やがてあれを意識から完全に除外してしまえばいいということを覚えるものなのだ。
「ううむ、いや、特に考えたこともなかったが──」
ためらうように答えるオルバに、グラドは空を見上げたまま語り始めた。
「俺は、子供の頃からずっとあれが何なのかを考えてきた。
──覚えているか? 昔、南の方から流れてきた男がいたろう」
「そう言えばいたな。確か、村に馴染む間もなく病で亡くなったと思うが」
「俺はその男から聞いたのだ。彼の生まれたところでは、あれはもっと天の高いところを通っているのだと」
「何だと?」
「そしてその男は、もっと南から来た男から聞いた話を教えてくれた。
はるかな南の地で、あれは空のてっぺんを横切る一本の線に見えるのだそうだ」
「──どういうことだ?」
オルバが困惑した表情のままなので、グラドは左の手のひらを上に向けて突き出してみせた。
「これを大地としよう。そして俺が考えるに、あれは大地の上をこういうふうに横切っているのだ」
グラドが手のひらの上で指を半円状に動かしてみせると、しばらく考え込んでいたオルバがようやく口を開いた。
「なるほど。その真下にいる者からは頭の上を横切るように見えて、そこから離れたところに行くほど低く見えるということか。
──だが、それを知っておぬしはどうするのだ。そんなことに意味があるようには思えんのだが?」
「さあな。確かに意味など全くないのかもしれん。
だが、これは小さな頃からずっと考えてきたことなのだ。この予想が正しいのかどうかを、死ぬまでに確かめてみたい。
俺はただ、その景色をこの目で見てみたいだけなのだ」
そう言ってから、グラドはオルバを安心させるように笑顔で肩を叩いた。
「なに、心配はいらん。あれの真下まで行って納得がいったら、俺は必ず帰ってくるさ。
数年はかかるやもしれんが──いずれ生まれてくる孫たちにも、狩りの技を教えてやらねばならんからな」
オルバが去った後も、グラドはひとり小屋の前に立ったまま、ずっとあれを見つめていた。
先ほどああは言ったものの、グラドは二度とここに戻ってくることはないだろうと確信していた。
これは、さすがにオルバの想像の範疇を越えてしまいそうなので口には出さなかったが、グラドはもうひとつ、かなり大胆な仮説を抱えている。
それを確認するため、あれの真下まで辿り着いた後も、東か西へとひたすらに旅を続けるつもりなのだ。
「──来た」
朝の気配だ。東の空が白み始めるにつれ、あれの東側が輝き出す。反対に西の方は闇に沈んだままだ。
やはりそうか。夜にあれが光を放つのは、太陽の光を反射しているからなのだ。
そして、太陽は見えない間も大地の裏側を通って東に移動している──大地の周りを回っているのだろう。
そして夜の間、あれの大半が真っ暗になるのは、大地の影が映っているからなのではないか。
──そう考えを進めていくと、あるひとつの考えにたどり着く。
それが影だとするなら、大地は丸い──円盤状か球形をしているのではないか、と。
「──さあ、行くぞ、ラグ」
グラドは荷を担ぎ、愛犬とともに歩きはじめた。
東か西に進んだ先に、何があるのか──。
大地の果てを見ることになるのか、あるいは大地に果てなどないことを知るのか、それはわからない。
その前に寿命が尽きることもあろう。だが、それでもいい。
あの南から来た男の話が自分を突き動かしたように、旅先で出会う人たちに自分の仮説を話すことで、同じようにあれのことを知りたいと考える者が現れるかもしれない。
そして、いつかはそんな者たちの中から誰かが正解に辿り着くかもしれない。
一見、何の意味もないようなことが、何代かを経ることによって、とてつもなく大きな意味を持つことに発展することもあるかもしれない。
そんなことを夢見ながら、グラドは無人の原野を歩き続ける。
──まだ見ぬ景色の待つ空の下を目指して。
空に浮かぶ巨大な弧──『月輪』。
そこに映る大地の影や、長距離を旅する者によって、大地が球形であることは早くから知られていた。
そして、人類がその英知を文字で記すことを思いつくのとほぼ同時に、数学も驚くべき早さで進歩を始める。
月輪のことを知りたいと願う探求心が、幾何をはじめとする数学の発展を大いに推し進めていくことになるのだ。