夢の始まり①
心電計から警告音が鳴り響く。
「ユウ! しっかりしろ!」
お父さんとお母さん、おにぃが私の手を握り締めていた。なのに私にはもうその感覚がなかった。
あんなにつらかった身体中の痛みもなく、暑いのか寒いのかもわからない。
私………、死ぬんだ………。
あんなに頑張って病気と闘って、私は負けたんだ。
なのに、不思議と、晴れ晴れとした気持ちだった。
三人とも悲しみに叫んでいる。
だから、少しでも気持ちを楽にしてあげたくて、笑ってみせた。………ちょっと引きつってるかも。
「ありがとう。」
か細い声だったけど、三人には伝わったみたい。
お父さんもお母さんも、おにぃも笑い返してくれた。
薄れていく意識の中、私は“ターシャ様”を想った。
******
澄み渡る青空。カーテンの隙間から朝日が差し込む。
ひんやりとした風がカーテンを揺らし、頬を擽る。小鳥の囀りが聞こえ、私はようやく目を覚ました。
ここってどこだっけ………?
寝ぼけながらベッドから身体を起こす。ボサボサの髪の毛をそのままに辺りを見渡した。
壁際の机の上には服と学生鞄、その下には旅行用のトランクケースが置いてある。ドアのある壁側には衣装棚だけで、物一つ落ちていない、シンプルな部屋。
いつもはあちらこちらに物が散らかっているのだけれど、馴染み深い、私の一人部屋だとわかる。
ぼんやりとする頭が段々とはっきりしてくる。
そして私は、先程まで見ていた『夢』を、思い出した。
「○▲#□#&@×※%△!!!」
言葉にならない叫び声を上げた。というか声すら出なかった。
私は転げ落ちるようにベッドから降り、机に置いてある鞄から手の平サイズのコンパクトミラーを引っ張り出した。パカッと開けて、真っ先に視界に飛び込んできたのは、シアン色の瞳だった。
なんだこの色!?と混乱した直後、そういえば私の瞳はこんな色だったなぁという妙な収まりの良さを感じた。
鏡が小さいので顔全体を見ることができないため、上下左右と手を動かす。
チョコレート色の髪を胸の辺りまで伸ばしている。クルクルとあちらこちらに飛び跳ねているのは、寝癖のせいだけではなく、元々の髪質がそうさせているから。
そして肌は白く、頬はほんのりピンク色に染まっている。
とても馴染み深い、美少女ヒロイン(15歳)がそこにいた。
「―――ぎっ、」
私は息を呑み、
「ぎやああああ~~~っ!!!」
今度こそ声に出た絶叫が部屋中に響いた。寝起きとは到底思えない叫び声に、窓の外にいた小鳥が一斉に飛び去っていく。
先程まで見ていた『夢』は私が死ぬ間際の記憶だった。そして、手の平の小さな鏡に映っているのは、死ぬ直前までやり込んでいた、西洋をモチーフとした、恋愛シミュレーションゲーム『TRUE LOVERS』の主人公、“ミリー・ジークムント”その人だった。
私がベッドにへたり込むのと同時に、部屋の外、階下からドタドタッと足音が聞こえ、それが近くなったと思ったら勢いよく部屋のドアが開け放たれる。
「どうしたの!?」
息を切らしたふくよかな女の人が慌てた様子で部屋へと駆け込んできた。彼女はそのままの勢いで、私に駆け寄る。
私は空気を取り込む魚のように口をパクパクさせながらも、その人を見つめた。
シナモン色の髪は後ろでひとつに結ばれ、キャラメル色の瞳が心配そうに私を覗き込んでいる。
ほうれい線がうっすら目立つ、昔からよく見知ったその顔に、私は更に現実を受け止めきれなくなり動揺する。
「おっ、お母さん………?」
この人は私の母だ。『TRUE LOVERS』の中では“ミリーの母親”という表記だけのモブキャラだったけど、私にとっては決してモブなどではない、母という唯一無二の絶対的存在であり、何よりこの人の名前が“マリーン・ジークムント”だとちゃんと認識している。
「どうしたのミリー? おかしな夢でも見たの?」
お母さんは絶句している我が子の額に手の平を当てた。
―――夢? ………そうか、夢か!
あの『夢』は自分の前世であると本能的に思ってしまったけど、そんなはずはない。私にはミリーとしての、昨日までの15年間、生きてきた記憶がしっかりとある。
それに、ゲームは魔法学園に入学するところから始まるのだから、それ以前のことなどあらすじ程度でしかなかったはずで、こんなにはっきりくっきり記憶に刻まれるほどの情報なんてなかった。
だからきっとおかしな夢だったんだ! うん! きっとそうに違いない!
私は“ユウ”としての記憶もはっきり思い出してきていたけれど、それを振り払うようにうんうんと首を横に振った。そんな私をお母さんは訝しむ。
「熱はないようだけど………。」
お母さんは挙動不審な娘の健康状態が良好であることを確かめてから、「今日から学園のお世話になるんだから、しっかりしなさい。」と立ち上がった。
そうそう、今日から学園のお世話に………
「―――って、えぇ!? 学園って………えぇ!?」
再び叫ぶ私に、お母さんは「今度は何よ………。」と呆れ顔をした。
「学園ってあの“フレスチ学園”のこと!?」
私の信じられないと言わんばかりの様子に圧されながらもお母さんは「当たり前じゃない。」と答えた。
『TRUE LOVERS』は所謂、乙女ゲーというやつで、とある学園で平民の少女がイケメン貴族と恋を育む、日常を描いた物語だ。そのとある学園というのが“フレスチ学園”なのだ。
フレスチ学園は魔法学園とも呼ばれ、普通科と魔法科に分かれている。学力を測る入学試験に合格した後、フレスチ教会で洗礼を受けるのだけれど、その洗礼で魔力を授かることができる。ただしそれは資質―――魔法使いの血を持つ者にしか表れない。それにより、魔力を授かれば魔法科に、魔力を授かれなければ普通科に、振り分けられて入学することになっている。
『TRUE LOVERS』では一周目は普通科だけ、二周目以降は普通科か魔法科かどちらかを選べるのだ。
果たして“今”の私はどちらなのか………。
「試験に合格して、魔法科に行けるんだってあんなに喜んでたじゃない。」
ということは、今は一周目ではないということか………って、一周目も何も、人生は一度きり! 魔法科に行こうが、普通科に行こうが、関係ないんだから!
再び首を横に振る私を、お母さんは更に訝しんだけど、もう気にしないことにしたのか、すくっと立ち上がった。
「朝食が出来ているから、顔を洗ってきなさい。」
そう言ってお母さんは私の部屋を出て行った。
私の頭の中は混乱しっぱなしだったけど、とりあえず立ち上がり、ずっと握り締めていたコンパクトミラーを鞄の中に押し込んだ。
私は寝間着のまま階下に行く。洗面台で顔を洗ってからダイニングに向かった。
「ミリー、おはよう。朝から元気いっぱいだね。」
ショートヘアでセンター分けされたシナモン色の髪にキャラメル色の瞳で爽やかな笑顔をした6歳年上の、私の兄、ミゲル・ジークムントが迎えてくれた。お母さんは台所でお皿に朝食のパンを盛り付けている。
「おはよう、お兄ちゃん。今朝は起きてきて大丈夫なの?」
「うん。昨日一日寝たから良くなったよ。それに、ミリーは今日から寮で生活するだろう? ミリーと食べる最後の朝食なんだから、寝てる場合じゃないよ。」
そう言ってお兄ちゃんはお母さんに渡された皿をダイニングテーブルに並べていく。
お兄ちゃんは幼い頃から身体が弱い。風邪を引けばすぐに熱にうなされるし、怪我は人より治りが遅かった。
昨日も、私が明日家を出て行くということを考えただけで熱が出て、丸一日寝込んでしまった。そのため今朝は、最後の夕食をまともに過ごせなかったという遺憾の思いと、朝食は絶対に一緒に食べるのだという執念の思いでなんとか起き上がってきたようだった。
だけど精神だけではやはりどうにもならなかったのか、お兄ちゃんはついに咳き込んでしまう。
「大丈夫!?」
私はお兄ちゃんの背中をさすってみるが、咳は落ち着いたものの、彼の顔は息苦しそうに歪ませたままだった。
「ミゲル、椅子に座って休んでなさい。」
お母さんはお兄ちゃんの肩を優しく支え、ダイニングチェアへと促す。
私はお兄ちゃんがまた更に痩せていることに気が付いた。触れた背中は薄かったし、肩の線は細く見えた。そして私はあることを思い出し、ゾッとした。
『TRUE LOVERS』にはトゥルーエンド、ノーマルエンド、バッドエンドの三種類の結末が各攻略ルートに用意されていた。トゥルーエンドは攻略対象者と結ばれること、ノーマルエンドは攻略対象者と結ばれないで物語が終わること、そしてバッドエンドは攻略対象者と結ばれず主人公の兄が死ぬことだった。
「………ミリー?」
心配そうに顔を覗き込むお兄ちゃんの声に、私は我に返る。
「なんでもないよ!」
頭を振って笑顔を見せた。
「この子、朝からおかしいのよ。」
お母さんはさらっと地味に傷付くことを言った。
「ミリーがおかしいのは昔からだよ。」
お兄ちゃんも冗談混じりに傷付くことを言う。
「二人してひどい!!」
あははっといつも通りの様子で笑うお兄ちゃんを見て、私はそっと胸を撫で下ろした。
「さあ朝食にしましょう。」
テーブルの上には牛乳の注がれたコップと、スープとサラダ、スクランブルエッグ、パンがそれぞれ白い皿に盛り付けられ並んでいる。椅子は四脚あり、私たちは各々の定位置、お兄ちゃんは私の左隣、お母さんは私の向かいに座る。
「いただきます。」
「いただきます。」
「いただきます。」
私たちは合図せずとも声を揃え、食事を始めた。
少しして、パンを頬張る私に、お母さんは小さくため息を吐いた。
「お父さんも今日くらい一緒に食べられたらよかったのに。」
私は牛乳でパンを流し込んで言う。
「仕事なんだから仕方ないよ。それに、三人で朝食を取るのはいつものことだから、お父さんがいたら逆に緊張しちゃう。」
本当はお父さんがいないことを寂しく感じていたけど、敢えて茶化してみた。
私のお父さん、チャールズ・ジークムントはパンの焼き窯工房を営んでいる。朝早くから釜の準備をし、客の持ち込んでくるパン生地を焼く仕事だ。釜の準備がてらお父さんの作ったパン生地を焼き、それを朝限定で販売したりもしている。どちらも評判が良いため朝は特に忙しい。ちなみにゲーム内ではお母さん同様モブキャラだ。
それにしても、今の会話もどこかでしたことあるような………。
私はそこまで考えて、でも今日何度目かの頭を振る。
「本当に大丈夫?」
お兄ちゃんがスプーンを置いた左手で私の右頬に触れた。
「フレスチ学園に行くこと、本当は無理してないか?」
暖かいお兄ちゃんの手が、ここは現実の世界なんだと言ってくれているようで、どこか不安だった心が落ち着いていく。
「無理なんてしてないって何回も言ってるでしょ。」
私はうんざりしたように言ったけど、でもやっぱり心配してくれるお兄ちゃんが嬉しかった。
「私がお兄ちゃんの病気を治したいの。解らないことは無いって云われてる学園に行けば、お兄ちゃんの病気のこと、何か手掛かりを見つけられるかもしれないんだよ。」
お兄ちゃんのためではなく、私自身がそうしたいから学園に行く。
そうはっきり告げると、お兄ちゃんはどこか寂しそうな顔をした。
しんみりとした空気を一掃するように、私はお皿に盛られた料理を平らげた。
「ごちそうさまでした!」
満たされたお腹を抱え、自室に戻った。
お兄ちゃんとの会話も、どこかで聞いたことのある台詞だったなぁ………。
寝間着から、机に用意されていた服に着替えながら、私はため息を吐いた。
服はフレスチ学園の制服だった。白色のブラウスの上にアイリス色のワンピースを着る。背中のファスナーに悪戦苦闘しながら、なんとか一番上のホックまで自力で留めることができた。ローズ色のリボンはブラウスの襟下で結んだ。
………うん。コスプレだ。
ミルキーホワイト色のジャケット―――と云っても襟はなくショート丈で、裾はカーブを描いているため、淑やかな印象がある―――を羽織るとより一層『TRUE LOVERS』の世界に入り込むことができる。ジャケットは首元にのみ留める部分があり、そのホックを留めてからリボンを出してみた。
「わぁ! 実際はこんなふうになってたんだ!」
一番好きでやり込んでいたゲームなだけあって、私は段々テンションが上がってくる。
ベッドの足下に置いてあったブロンズ色のブーツを履いたら、完成だ。
ブーツには5cmほどのヒールがあり、私はバランスを取るのに少し手間取った。今までバレエシューズしか履いてこなかったせいだ。初めての体験で更にテンションは上がり、踊りたくなる。
「………って、なに満喫してるんだ!!」
ここをゲームの世界としていつの間にか受け入れかけたとき、階下が騒がしくなった。
エヴァンが来たのかも。
私は寝間着をベッドの上に畳んで置き、忘れ物がないか手荷物を確認する。
コンコン、と部屋のドアがノックされる。
「ミリー、エヴァン様がいらしたわよ。」
お母さんはそう言って部屋に入ると、私を見て思わず息を呑んだ。
「どう、お母さん!」
私はクルクルッと回ってスカートをひらめかせた。
「とても、綺麗よ。」
どうしてかお母さんは目元を指先で拭う。
「髪の毛を結ってあげるわ。」
お母さんは私をベッドに座らせ、エプロンのポケットから櫛を取り出した。
私のくるくる跳ねた髪を慣れた手つきでさっと梳かし、後ろ髪を縦真ん中で二つに分ける。櫛とともにしまっていたゴムで片方を留めて、もう片方は三つ編みにしていく。三つ編みの終わりをゴムで結んで、留めていたほうも同様に三つ編みにする。
「さあ、行きましょう!」
1分もかからず仕上げたお母さんは満足そうに微笑んで立ち上がった。そして机に置かれた鞄を私に持たせ、お母さんはトランクケースを持つ。
これからは私が結ぶのか………。
私は部屋を見渡した。
行ってきますと心の中で呟き、お母さんとともに部屋を出る。そして私は部屋のドアを閉めた。