9-(2)
「私。エルさんに会いたいのですが……」
「目を覚ませば大丈夫だ。ただ、会う前に彼の頭を確認しなさい」
「頭?」
「獣化が始まると、先に頭に耳が生えてくる。耳と尻尾が生えただけなら半獣化だ。それまでにこの薬を飲ませれば、獣化が止められるから」
「わかりました」
ファンヌはオスモの言葉に頷いた。
ファンヌはオスモと共に、エルランドが休んでいる部屋へと向かった。どうやら彼は客室にいるらしい。
部屋の扉を叩いても返事は無い。部屋まで案内してくれた侍女に様子を伺うと、「入室の許可はもらっているからご自由に」と言う。その許可を出しているのは、国王に違いない。
ファンヌはそろりと扉を開けた。奥にある寝台が膨らんでいて、それが規則正しく上下している。
「まだ、眠っているようですね」
ファンヌは隣にいたオスモに声をかけた。
「そのようだな。私はエルの顔だけ見たら、向こうに戻るよ。ファンヌ嬢は、エルが目を覚ますまでここにいるのだろう?」
オスモは、近くにあったテーブルに備え付けてあった椅子を、寝台の脇に置いた。
「立ったままでは疲れるだろう? 特等席を準備してやった」
ははっとオスモは笑った。きっとこの状態のエルランドならば、問題ないのだろう。
「ありがとうございます」
「では、私は先に戻るからね。何かあったら、『調薬室』に来なさい」
「はい」
オスモの背中を見送ったファンヌは、椅子に座ってエルランドの寝顔をじっと見つめていた。
このように彼の寝顔を見るのは初めてかもしれない。
(どうしよう……。可愛く見える……)
いつも老け顔であると思っていたエルランドの顔であるが、前髪をすっきりとさせ、銀ぶち眼鏡を外したら、ちょっとだけ若返ったように見えた。だが、このように無防備な寝顔を見せられると、聞いていた年よりも幼く見えるから不思議だった。
(あ、睫毛が長い……)
ファンヌがベロテニアに来てから半年が経とうとしているが、エルランドの顔をじっくりと見つめることは初めてだ。まして寝顔など。扉の前のテーブルが二人の部屋の行き来を邪魔している。
穏やかな表情で眠っている。だからファンヌも彼の顔を穏やかな気持ちで眺めていた。
(でも、エルさんがこのまま目を覚まさなかったら……)
ふと、そんな不安がファンヌを襲う。
(でも、大先生はそろそろ目を覚ます頃だって)
ファンヌの心の中にはさまざまな「でも」が生まれ始める。
(でも、大丈夫)
エルランドが苦しそうに顔をしかめた。驚いてファンヌは彼の額に触れる。
表情が和らぐと共に、瞼がひくひくと動いた。ゆっくりと瞼が開かれ、その下から細い碧眼が現れた。
「エルさん。ご気分はいかがですか?」
「あぁ……。ファンヌか? オレは一体」
思い出せない、とでもいうかのように彼はファンヌを見つめてきた。
「あ、はい。陛下から怪しげな『薬』の分析を依頼されて、そのときに、ちょっと気を失ったようです」
その言葉でエルランドは自分の身に何が起こったのかを思い出したようだ。
聞いたところ、我を忘れ記憶さえ失うと言われていたあの『薬』であったはずなのだが、どうやら彼は記憶がはっきりとしている様子。きっと『抑制剤』の効果なのだろう。
「ファンヌ……。オレは君に黙っていたことがある」
「先祖返りの件ですか? 聞きました」
ケロッとファンヌが答えると、エルランドは細い碧眼をこれでもかと開こうとしてきた。
「恐らく、陛下が持っていたあの『薬』が、エルさんに過剰に反応したようですね。飲まなくても、匂いか、それとも粉末上のものが固まっていただけだから、知らぬうちに吸いこんでいたとか……」
う~ん、とファンヌは腕を組んで考える。
「だから、もし、君がオレとの婚約か……」
「しませんよ?」
ファンヌがエルランドの言葉の続きを遮った。
「エルさんのことだから、婚約解消してもいいとか。そんなことを言うつもりなんですよね? ですが、しませんよ。聞いてください。私、リヴァスの王太子とも婚約解消してこっちに来たんですよ? こっちに連れてきたのはエルさんですよね? そこでやっと婚約したのに、そこでまた解消? こっちの王子様にまで婚約解消されたら、もう、私を嫁に貰ってくれる人なんていないじゃないですか……。あ、一人いたかも」






