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次の日――。
ファンヌは、邪魔になる髪の毛を少し高い位置で一つに結わえ、シャツにトラウザーズといういつもの姿で、懐かしい学校を訪れていた。
真っ白い外壁に青い屋根の四階建て。建物の中心は一際高く、時計がついている。学生や教師からは時計台と呼ばれている部分だ。
ファンヌの目的地は、その時計台よりも東側の三階にあるエルランドの研究室。学校に通っていた頃、ファンヌが所属していた研究室でもある。学校の入り口にある事務所に顔を出し、エルランドに会いに来たことを伝えると、事務員は快くファンヌに入校許可証を手渡した。
「久しぶりですね、ファンヌさん。今日はどうされたのですか?」
「エルランド先生に会いに来たのです。ちょっと『研究』のことで相談があって」
「キュロ教授でしたら、この時間は研究室の方にいらっしゃいますよ。ファンヌさんのお茶、評判が良いですよね。私も毎日飲んでますよ。あ、ファンヌさんではなく、ファンヌ様とお呼びすべきですね」
「やめてください。本当に、そういうんじゃないんで」
ファンヌは顔の前で両方の手を広げてひらひらと振った。この事務員とは学校に通っている時からの顔馴染であるため、このように砕けた口調で話してくれるのと、冗談が通じるところが良い。
ファンヌが事務員に向かってペコリと頭を下げると、彼女は手を振って見送ってくれた。
懐かしい校舎に足を踏み入れると、独特の香りが鼻についた。時計台よりも東側の建物は、主に『調薬』や『調香』を専門とする研究室があるため、西側よりも匂いが強いのだ。だが、それすらファンヌにとっては懐かしいものであった。
歩くたびにギシッと軋む廊下も、年代を感じさせるもの。各階を繋ぐ折り返しの階段をゆっくりと上がっても、ギシギシと軋んだ音がする。この階段を上るたびに、エルランドが「東には予算が無いから、階段も直してくれない」とぼやいていたことを思い出す。
三階に上がり、階段から三つ目の扉。それがエルランドの研究室である。
扉を叩くと中からすぐに返事があった。
「はい。開いてるよ」
つまり、鍵はかかっていないから自分で扉を開けて中に入ってきなさい、と言っている。
「お久しぶりです、エルランド先生」
扉を開け、ファンヌがそう口にすると、黒髪の前髪が鬱陶しい青年――エルランドが、銀ぶち眼鏡の下にある細い碧眼を一生懸命大きく開こうとしていた。
「ファンヌ、か?」
「はい。ファンヌ・オグレンです」
自席で何やら調合をしていたようだ。仄かに匂う薬草の独特の香り。この香りから察するに、体力強化剤辺りを調合していたのだろう。
「体力強化剤、ですか?」
ファンヌが尋ねると、エルランドは喜悦の色を浮かべる。
「さすがファンヌだな。もしかして、香りだけで判断したのか?」
「はい。少し刺激するような香りが特徴的ですから。これを茶葉と組み合わせれば、眠気も吹っ飛んで、集中力も高まるようなお茶ができるかも……」
ファンヌがぶつぶつと言い出したため、エルランドは目を細めた。
「ところで、今日はどうしたんだ? 君は、その……。王太子殿下の婚約者だろう? 王宮の方に通わなければならないからと言って、学校を辞めたのではなかったのか?」
「あ、はい。そうです。殿下の婚約者を辞めたので、またこちらに通うことができないかと、先生にお願いしようと思って来ました」
ガタッと、エルランドが椅子から落ちそうになった。
「先生、どうかされましたか」
ファンヌが慌ててエルランドに駆け寄ると「なんでもない」と手を振り、眼鏡をくいっと押し上げた。