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「さすがに陛下も、正式に婚約解消された二人を、また婚約させるという暴挙はなさらないのではないかしら?」
黙って話を聞いていたヒルマがゆっくりと口を開いた。
「神殿に書類を提出して、それが正式に受理された。これが何よりの証拠よね。つまり、これによってあなたたちの婚約解消は、街中の人たちに知れ渡っていくわよ。こんな世の中ですもの。少しでも刺激のある話題は、彼らの大好物」
ヒルマの話を聞いて、ファンヌは考える。
「この場合、私はクラウス殿下に捨てられた可哀そうな人間に認定されるのでしょうか。それとも婚約者をアデラ様に寝取られた間抜けな人間に認定されるのでしょうか」
人々の話題にあがるのはかまわない。むしろクラウスの婚約者に決まった時も、その話はぶわぁっと人々の間に広まったのだから。
さすがオグレン侯爵家という声もあれば、あの地味娘がという声もあり、できるだけ気にしないようにファンヌは努めた。もちろん婚約者に選ばれた当時は学校にも通っていたため、その両極端の声が直にファンヌに襲い掛かっていた。
それを庇ってくれていたのが、ファンヌの師であるエルランド・キュロ教授であった。エルランドはファンヌが周囲に翻弄されずに『研究』に打ち込めるようにと、そういった声や物理的接触から遠ざけてくれた。
だが、それも長くは続かなかった。ファンヌ自身が王太子妃教育を受けなければならなくなり、学校を退学してしまったのからだ。彼と共に行っていた『研究』が中途半端な形で終わってしまったことが、ファンヌの唯一の心残りでもある。
「半々ってところかしらね」
ヒルマが何を根拠にそう口にしたのかはわからないが、誹謗中傷よりは同情された方が『研究』に与える影響は少ないと、ファンヌは思っていた。
「まあ、そういうことですから。私が学校に戻ることを許していただきたいのですが」
「そうだな。ファンヌの『調茶』の『研究』は、この国にとって重要なテーマだからな。もちろん反対はしない。だが、一度退学という形をとってしまっているから、学校には確認をしたほうがいいだろう」
「ありがとうございます。すぐにでもキュロ教授に連絡してみます」
「ファンヌ。陛下のことは私たちに任せなさい」
トンと胸を軽く叩くヒルマが、この中で一番頼もしく感じた。
この後、家族で他愛もない話をした後、ファンヌは自室へと引き上げた。窮屈なオレンジ色のドレスを脱ぎ、シャツとトラウザーズに着替える。令嬢とは思えない恰好であるが、ファンヌにとってはこの恰好が動きやすかった。
まだ日が沈みきるまでには時間がある。ファンヌは屋敷の裏庭に足を運んだ。ファンヌが育てている薬草や茶葉が西日を浴びて、風に揺られていた。王宮内の庭で生育させてもらえないかと頼んだが、それはやんわりと断られてしまった。その代わり、工場の方で育てろと命じられる。
ファンヌは工場のように管理された空間で人工的な光によって育てるのではなく、庭園や畑で自然光を浴びる薬草や茶葉を育てたかった。
王宮の考えはとにかく『量産』だった。必要な薬草や茶葉をいかにして効率的に育てられるかが重要だったのだ。
ファンヌは赤い花を咲かせている薬草の前で膝を折る。独特の香りが、鼻腔をくすぐる。
(今日はこれにしよう)
そのときの気分で薬草を摘み、茶葉を摘み、それらを組み合わせて調茶を行う。思った通りの味のお茶もできるときもあれば、想像しなかった味のお茶ができるときもある。効能を優先すれば味が落ちるときもあるし、味を優先すれば効能が落ちるときもある。
もちろんどちらもうまくいくときもあれば、失敗するときもある。だが、それが調茶の楽しみ方の一つでもあった。
(今日は、ゆっくり休みたいわ……)
だからその花を詰んだのだ。
太陽がだいぶ西に傾いてきた。あと一時間もしないうちに、外は闇に覆われ始めるだろう。
ファンヌは摘み取った薬草を籠に入れ、小走りで屋敷の中へと戻っていった。