プロローグ
「ファンヌ。聞いてくれ。アデラが子を授かった。だから婚約を解消して欲しい」
リヴァス王国の王宮内にある応接室。赤系統の色で統一されたこの部屋は、見るからに華やかである。壁の赤い花柄のような模様にもよく見れば金箔が施されており、部屋の中央からぶら下がっているシャンデリアがきらきらと揺らめいている。
この応接室でファンヌと呼ばれた少女は今、彼女の婚約者でありリヴァス王国王太子のクラウスと、大理石のテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
ファンヌが座っているソファも赤いし、二人を隔てている大理石もワイン色のもの。
本来であれば、婚約者同士である二人は並んで座る関係である。だがクラウスの隣には、豊かな茶色の髪をうねらせている妖艶な美女――アデラがいた。彼女のことはファンヌも知っている。クラウスが熱をあげている女性だ。確か年はファンヌの三つ上で、クラウスよりも二つ上の二十一歳であったと記憶している。
ただ、クラウスにはファンヌという婚約者がいるのだから、アデラは浮気相手に該当する。
彼が困ったように髪の毛をかき上げると、指の隙間からさらさらと金色の髪が零れ落ちる。
「左様ですか、おめでとうございます」
感情を押し殺した声で、ファンヌはその言葉を口にした。
「おお、ファンヌ。君もそう思ってくれるか」
茶色の目を大きく見開いたクラウスは、ぐっと身を乗り出してきた。ファンヌはそれを両手で制してから。
「ええ、新しい命を授かるとは神秘的なこと。どうか、アデラ様もご自愛くださいませ」
「本当に憎らしいくらいに良い子ちゃんね」
「えっ」
「何でもないわ。ファンヌ様からの温かい言葉で、私もこの子を産む決心がつきました」
艶やかな声でアデラが微笑んだ。
「そう。そうなんだよ、ファンヌ。アデラは僕たちのために、この子を堕胎すると言っていたんだ。だが、そのようなことが許されるわけがないだろう? だから僕は、君との婚約を解消して、アデラを正妃にしようと思ったんだ。ファンヌならわかってくれるよね」
「そうですね」
抑揚の無い声で、ファンヌは答えた。
「だけど。アデラは優しいから。もしファンヌが僕のことを好きであれば、君のことを側妃に迎えてもいいと言ってくれている。そのときは、今のまま婚約は継続させよう」
「いいえ。私はお二人の仲を引き裂くようなことをしたくありません。ですから、どうぞ私との婚約を解消なさってください」
「そ、そうか。残念だが仕方ないな。おい、ジェームス」
クラウスが侍従の名を呼ぶと、ジェームスと呼ばれた彼が目もくらむような黄金のトレイに一枚の書類をのせ、それをテーブルの上に置いた。その書類は二人の婚約解消のために必要なものである。
「ファンヌ。そこにサインを」
「はい」
ジェームスから羽ペンを受け取ったファンヌは、躊躇いもせずに書類にサインを走らせる。そして、クラウスも同様に。
羽ペンを置いたファンヌは、アデラを見据えた。
「アデラ様。最後に一つだけ、私の我儘を聞いていただいてもよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「最後にクラウス様と神殿までお出かけをさせてください」
「神殿?」
アデラは不思議そうに眉根を寄せる。「はい」とファンヌは大きく頷く。
「この書類をクラウス様と共に神官長へ提出する許可をいただけますか?」
「そのくらいなら……」
アデラはクラウスと顔を寄せ合い、ファンヌには聞こえぬ声で二人は幾言かを交わしていた。
「わかった、ファンヌ。今から僕と一緒に神官長の元へ向かおう」
神官長とは神事を執り行う神官たちをとりまとめている者であり、王宮から少し離れたところにある神殿にいる。この神殿は貴族の婚姻や出生などを管理している。そのため、今、サインをした書類を神殿に提出しなければ意味がない。
二人は王宮の敷地を出て、神殿へと向かった。隣の敷地であるため、歩いて行ける距離でもある。
二人で最後に歩きたいとファンヌは口にした。
ファンヌの隣にいるのは王太子だ。恐らく、ファンヌの気付かぬところに彼の護衛はいるのだろう。
つまり、クラウスと一緒になるとは、そういうこと。どこからか誰かから見張られている世界。それを考えるだけでも、ファンヌは息が詰まりそうになっていた。
妊娠初期であるアデラは、部屋で休んでいると言った。その部屋も、彼女の妊娠がわかってから、クラウスが用意したものらしい。
残念ながらファンヌは、王宮に専用の部屋を持っていない。
ファンヌがクラウスと共に神殿を訪れ、神官長に書類を手渡すと、彼は驚いたように口を開けた。だが、すぐに平静を装い、書類を受け取る。
「神の名の元に、お二人の婚約は解消されました」
ファンヌは恭しく頭を下げ、神官長の元を去る。
神殿から外に出た途端、ファンヌは青い空に向かって両手を大きく上げ、伸びた。
「クラウス様。今までお世話になりました。私が受けておりました王太子妃教育も、本日で終了です。どうかアデラ様とお幸せに」