5
その牢獄は、絢爛豪華なアルベール宮殿の地下にひっそりと存在している。
今よりも少し古い時代には、罪を犯した貴族や革命家が収容されてきたが、より多くの犯罪者を収容できる監獄が別の場所に建設されてからは、ここが使われることは滅多になくなった。
エリザベスは、その閑散とした獄中の一室に、幽閉されていた。そこは人が四~五人程度、川の字になって寝られるくらいの広さで、床には藁が敷き詰めてある。地下牢なので当然外の光は入ってこず、燭台の灯りだけが頼りの場所だ。見張りの衛兵に尋ねなければ、今が朝か昼なのかさえ分からない。食事は一日二回運ばれてくるので、空腹に喘ぐ事はないが量は少なめで、普段のメニューと比べると質素な内容になっている。また、この独房には寝台も寝具もない為、部屋の隅に山積みにされた藁を被って眠る。
本来、王族や貴族が収容される場合は、同じ牢獄でも、もう少しましな環境が用意される。しかし、二コラの宣言通り、エリザベスは一般の囚人と同じ扱いを受けていた。
初めは慣れない環境で過ごすことに、不安や戸惑いを感じていたエリザベスであったが、四日目の――つまり今日の朝を迎える頃には、それらはすっかり解消されていた。どうやら体がここでの生活に適応し始めたらしい。しかも、冷静に考えられるようになってきたことで、地上では滅多に体験できない、獄中生活の利点も見えてくるようになった。それは、ここでは周囲の目を全く気にする必要がないということだ。例えば思いきり欠伸をしたり、胡坐をかいて座ったりしても誰にも文句を言われない。また、面倒な社交の場にも行かなくて済むので、余計な気を遣って無駄に精神力を消耗する事もない。しかし、ここでずっと暮らしたいかと問われれば返事はノーだ。何故ならここには喋り相手がいない。とにかく毎日退屈なのだ。ここでの唯一の楽しみは、一日一回三十分程設けられた面会の時間に、アンと会話をすること。それ以外は本当に何もすることがなかった。せめて魔法が使えれば、基礎訓練で時間を潰す事も出来るが、ヘリオス王国では王の許可なく魔法は使えない。
その夜――エリザベスは、三日前の出来事を思い出していた。二コラがメイドを見下ろすときのあの冷たい視線は、今でもはっきりと脳裏に刻まれている。親族の肖像画を傷付けられたのだから、あれだけ怒るのも無理はないのかもしれない。自分が逆の立場でも、少なくともいい気分にはならないだろう。しかし――
(あそこまで激昂するのには、何か特別な理由があったのではないかしら……)
と、エリザベスは思案に耽る。
すると、遠くの方から誰かの足音が聞こえてくる。その音は次第に大きくなり、エリザベスがいる独房の前でぴたりと止まった。
姿を確認するため、エリザベスが鉄格子の近くまで歩み寄ると――そこには真顔でこちらを見つめる二コラが立っていた。
(どうして陛下がここに……)
「どうだ、ここでの生活は。そろそろ辛くなってきたんじゃないか?」
エリザベスは、挑発的な問いに眉を顰める。
「いいえ、全く。寧ろ最近体が慣れ始めて、獄中生活も悪くないと思い始めていたところですわ」
「相変わらず、口数の減らない女だ」
「人より少し前向きなだけです。――それで、ここへは何のご用で?」
「なに、お前もそろそろ、ここの生活に飽いてきた頃だろうと思って――」
「いえ、全く」
「話は最後まで聞け。お前も強がってはいるが、実際ここでの生活は大変だろう? 王女として何不自由なく育ってきたお前にとっては、尚更辛く感じる筈だ」
「…………」
その沈黙を肯定と捉えたニコラは、僅かに口端を上げる。
「余も鬼ではない。まだ四日目ではあるが、お前の出方次第では今すぐにここから出してやってもいい」
どうせろくでもない条件なのだろうと予想は出来たが、エリザベスは一応聞いてみることにする。
「因みにその条件をのんで、私が牢から出たとしても、メイドが斬首刑になるなんてことはありませんわよね?」
「勿論だ」
「分かりました。で、その条件とは?」
「何も難しい事ではない。お前が余にたった一言、『悪かった』と詫びるだけだ」
「お引き取り下さい」
「そうかそうか、お前も素直に謝る気になっ――って、な、何だと!?」
「ですから、お引き取り下さいと申し上げているのです」
「な、何故だ!? 余に謝罪するだけで、お前はここから出られるのだぞ!?」
「何故と言われましても……。理由がないのに謝罪なんてできませんわよ」
「理由ならあるだろう! お前はあの時、余の決定に横槍を入れ、王権を軽視した。本来ならば不敬罪で罰するところを、余が大目に見てやったのだぞ!」
「大目に見てくれなんて、こっちは頼んでおりません。そんなに気に食わないなら、私を罪に問い処罰なされば宜しいのです。そうなったとしても、私は貴方に謝罪するつもりはありません。自分が間違った事を言ったとは思っていませんから」
「なっ! んだとッ――……」
二コラは苛立ちの籠った眼差しをエリザベスに向ける。
ニコラが治めるこの国は豊かだ。行きがけに見た市場の風景は活気に溢れ、行き交う人々の表情は生き生きとしていた。また、街は綺麗に整備され、物乞いなどの貧困層も殆ど見受けられなかった。このことから鑑みるに、彼は自分にとっては最悪な夫でも、国民にとっては良き王なのだろう。彼のことを天性の治世者と評した父の言葉は、間違いではなかったということだ。
だからこそ、ここで引く訳にはいかない。仮にここで自分が謝罪すれば、もっと穏便にこの場を治めることが出来るだろう。しかし、それと同時に、二コラはこの先自分に刃向かう者が現れても、力で抑えつければ解決できる、と認識する事になる。そうなってしまえば、彼の周りには逆らう者がいなくなる。そして最悪の場合、いつか暴君と化した彼が、誤った判断で国を亡ぼすことになるかもしれない。
たかがメイド一人の死活で大袈裟な、と思う者もいるかもしれないが、自分はそうは思わない。何故なら、彼女も立派なヘリオス王国民の一人だからだ。
父王はよくこう言っていた――『民一人を軽視する者は、君主の器に非ず』と……。
「分からぬ。ここで余に一度謝るだけで、お前はこの牢獄から開放され、メイドも死ぬことはない。お前にとっては得でしかない話だ。どこに謝罪を拒否する理由がある?」
「損得の問題ではありません。私が謝罪することは、自分の発言が過ちであったと認めることと同じ。それは、メイドの命を救ったことをも、否定する行為です」
「何故そうまでして、あのメイドを庇う? あれはお前を拒んだのだぞ」
「それとこれとは話が別です。私はこの国の国母として、正しいと思う行動を選択したいだけです」
ニコラはほんの一瞬、瞠目する。
「はっ。お前のその頑なな態度は、国を思ってのことだと言いたい訳か」
「ええ、そうです。私は約束通り、貴方の私情には一切口を挟みません。貴方が誰を愛そうと、どれだけ愛妾を囲おうと、一向に構いません。ですが、一国の主として間違った判断を下した貴方を、見過ごす訳にはまいりません」
その言葉を受け、ニコラの表情がより一層険しくなる。瞳は光を失い、凄まじい怒りだけが彼を支配しているように見える。すると次の瞬間――エリザベスの喉元に剣の切っ先が迫る。あまりに一瞬のことだったので反応する暇もなかった。
「謝罪せねば殺す、と言ってもかッ」
二コラは一段声を低くして問いかけてくる。その表情を見れば、それがただの脅しでないことは明白だった。しかし、エリザベスはニコラから視線を逸らさない。――彼女の脳裏に過るのは、国の為に懸命に戦い抜いた負傷兵らの姿……。ここで恐怖に屈すれば、きっと命を失うよりも後悔することになる。
「――はい。私の意志は変わりません」
するとニコラはチッと舌打ちをした後、エリザベスの喉元からゆっくりと剣を離す。それからエリザベスを一瞥すると、何も言わずに牢から立ち去って行った。