304 聖女と悪魔とそして毛玉
「すごく不思議。悪魔なのに、全部治らなかったの?」
「悪魔を万能な全知全能な神か何かだと思ってないっすか。ステラちゃん」
「ええ、そんなことないよ」
そんなことないと言ったが、図星であり、私は目をそらした。それに対してベルはぶつくさと何かを言っているみたいだったけれど、何を言っているかはさっぱりわからなかった。
今、そんなベルを傷つけた張本人であるルーチャットは大人しく私の膝の上で丸くなっているけれど、ベルが近づこうものならまた毛を逆立てて吠えだすのでたまったものじゃなかった。なんで、こんなふうにベルにだけ当たりが強いのか。ベルも私も、ベルが悪魔だからという同じ見解にはなったのだが、どうもそれだけじゃない気がしてならない。いや、あくまである時点で、ルーチャットの嫌々カウンターは爆上がりしてしまっているのだろう。
「ほんと、酷い目にあったっす」
「傷の治りが遅いのは、人間の身体だからなの?」
「まだ、その話続けるんすか。違うっすよ。この犬が……あたたたた」
「もう、ルーチャット食べちゃダメ!」
もしかしたら、ベルは食べ物と思われて言えるのかもしれない。いや、そんなわけはないのだが、ベルが何かをいおうとするたびにルーチャットはまるで口止めするようにベルに噛みつくのだ。法則性が見えないが、ルーチャット自身が何かを感じ取ったうえで行動していることは明らかであり、それが何か走りたいと思った。ただ、犬と意思疎通できるような魔法があるわけでもないので、私はルーチャットのおかしな行動を見守ることしかできなかった。
今度は手の甲を噛まれてしまい、その歯形はくっきりと浮かんでいた。言わんこっちゃない、と思いながらも、私はベルの手を消毒するために棚に置いてあった消毒液と包帯を持ってくる。魔法が使えたら一発なのだが、そもそも悪魔と聖女の魔法はアルベドと私の魔法がぶつかるよりも恐ろしい影響がありそうで、反発がおきそうだった。荒療治するまでもなく、自然に治るものだと仮定し、私はベルの治療に集中した。
「こんな性格じゃないんだけどね。ルーチャット」
「へえ。その毛玉、ルーチャットっていうんすか。ステラちゃん、ステラちゃん。飼い犬は選んだ方がいいっすよ。そいつ、マージで危険っす」
「え、何かが化けているとかそういう系?」
「まあ……いや、そんな系じゃないこともないっすけど。あー分かったっす。そんなふうに睨まないでほしいっす」
あまりにも反応速度が早く、ルーチャットはまた牙をむき出しにベルを睨んでいた。私も私で、膝の上でうなられるのはちょっと、とは思うが、あまりにも嫌いらしいので、ルーチャットとベルを離すべく、ルーチャットを外に出そうかとも思った。しかし、そうしようとするとそれが伝わってしまったのか、ルーチャットは私の服にしがみついて離れようとしなかった。これが駄犬……なんても思ったけれど、確かに、こんなに広い屋敷の中一人にさせるのはかわいそうだと、私はルーチャットを撫でながら膝を均等にならす。すると、ルーチャットはくぅんと鳴いて私を見上げた。
「ど、どうしたの?お腹すいた?」
「かわいこぶってるっすけど、そいつ雄っすよ。それも、中身……いでででででで!」
「ベルって学習しないよね」
何度噛まれれば気が済むんだろうか。一種のギャグになっている気がして、ルーチャットもどことなく楽しそうに見えてきた。多分楽しくはないんだろうけれど、楽しそうに見えるのでなんだか微笑ましくも思う。だが、がっつり噛まれているので平気とはいいがたい。だから、噛まれないようにしてほしいのだが、ベルは聞く耳も持たない。
全くどうなっても知らないから、と思いつつも、ベルが言いかけた言葉は気になってしまった。しかし、それをいったら私もルーチャットのかみかみ攻撃の餌食になってしまいそうだったのでいうのを辞めた。確かにただならぬオーラは感じるし、普通の犬だとは思わないのだけど、中身が何かということまでは怖くて聞けないのだ。もしかしたら、ベルと同じ悪魔かもしれないし。
そう思っていると、キャン、と私の足の上でルーチャットが吠えた。それはまるで、違うとでも言っているようだった。
「悪魔じゃないなら、何なんだろう。女神の使い……とか?」
「ああ、その毛玉の正体知りたいんすよね。いやあ、俺も驚いたっすよ。まあ、これ以上噛みつかれたくないんで言わないっすけど、いずれ分かるといいっすね」
「いずれ教えてほしいんだけど」
「さあ」
「何で、さあなのよ……」
ベルはいう気が全くないように肩をすくめた。そこまで言われると知りたくなるのだが、今はその時じゃないとぐっとこらえた。ルーチャットが何者であっても、この子も私のそばからいなくなってほしくない。ただそれだけはとても思った。これ以上失いたくないし、手放したくないのだ。
「さて、ちょーっと気が変わったんで。例のあれを見せた上げちゃおうっすかね」
「例のアレ?」
「もー忘れちゃったんすか。酷いっすよ。こっちは善意でやってあげてるっていうのに」
「そういうのいいから……え、本当にいいの?」
「あの、思い出したんなら、思い出したって言ってほしいっす。ちょっとステラちゃんびっくり」
と、ベルは引き気味に言った。
本当に悪魔の気紛れというか、まさかルーチャットに脅されたんじゃないだろうなと思ったけれど、どうやらそうではないらしかった。本当に彼の気持ちが変わっただけで、彼は私に先ほどは見せてくれなかった、アルベドたちの様子を見せてくれるというのだ。
ちょっと時間がかかるっすけど、といった後、ベルはパチンと指を鳴らした。すると、どこからともなく大きな鏡が現れ、ぼんやりと何も見えなかった鏡の部分に何かが映りだす。銀色で縁取られたその鏡は、人のサイズくらい大きかった。
「ど、どういう仕組み?」
「仕組みとか気にしちゃダメっすよ。まあ、なんすかね。悪魔がこの世界を見るのに使っていたかがみっていえばいいっすか。個別にあるもので、ほとんどの悪魔が使用できる技っすよ」
「本当に便利というか、不思議というか。悪魔の研究が進んでいないから何も分からないんだろうけれど、進んだらきっと世紀の大発見ね」
「そのためにどれくらいの人間が犠牲になるのやら」
ベルは呆れたようにため息をついた。
確かに、悪魔を召喚するのは至難の業だし、そもそも禁忌の魔法だと言われている時点で使ってはならないのだ。それでも使ってしまう人間がいるのだから、悪魔は日常に溶け込んでしまうし、悪魔を倒せる人間が一定数以内と、今頃滅ぼされているだろう。だが、悪魔自身には全人類を滅ぼすほどの力はない。なぜならば、彼らの上に立つ存在がいるから。それが、混沌であり、悪魔が聖女と対立する同じくらいにいる理由でもある。
そんなことを思いながら私はじっと鏡をのぞいた。鏡の暗闇が晴れていき、真っ白な外の景色を映し出す。吹雪のせいもあってみようと思ってもそこに誰がいるのかも分からない。
「これ、ポンコツ過ぎない?」
「おかしいっすね。見えるはずなんすけど。ああ、でも、肉塊の中までは移せないかもっすね。あれに座標はないっすから」
「い、意味ないじゃん……あ!」
意味ないと言った瞬間、アルベドの赤髪がちらりと映った気がした。そして、画面半分を覆いつくすほどのあの赤黒い肉の塊が映り、アルベドの赤を飲み込まんと大きく口を開けたのだった。




