241 はぐれたら危ない
「――ん、んんん……」
「おーい、生きてっか?」
「生きてない。瀕死」
「あっそ。その様子じゃ大丈夫そうだな」
「どこが!?げほ、ごほ……うぇ、ベタベタ。気持ち悪い」
鼻を刺すような腐乱臭で目が覚める。体を起こそうと思っても、粘着質な何かが体に斗割ついて体を起こすのも困難だった。どうしてこうなった? と思って周りを見渡してみたが、五メートル先以上は何も見えない暗闇が広がっているばかりで、相変わらずの気持ち悪さに胸をきゅっと掴むことしかできなかった。まるでそれは地獄の光景――
この間も見たが、何度見ても、この異様さだけは受け入れがたいものだった。
ひとの悲しみを詰め込んだような孤独の空間に、アルベドも眉間にしわを寄せて、酷いな、と口にしていた。酷いという言葉以外が出ないほどの酷い空間である、というのがこの空間にいる人間の共通認識だろう。どうなったら、あの肉塊の内部にこんな広い空間が広がっているのか分からない。
(もしかして、ラヴァインのあれ……空間を作る魔法が作用しているから?)
「前々から気になってたんだけどさ。その、この肉塊を作るのって、作ったのって、ラヴィも関わってるの?」
「ん?ああ、そうだな。かかわってると言えば関わってるだろうな。お前の予想通りっつうか、この空間……果てしない空間を作れる人間なんて限られている。開発というか、この肉塊の育成にあいつが噛んでいることは確かだろう。今はどうか知らねえけどえ」
「でも、バレないようにするためには、まだ制作に関わっている、かも……だけど」
「んなこと考えてもしょうがねえだろう。あいつはあいつ、今はこっちを考えろよ」
「え、なんか怒ってる?」
地雷を踏んだつもりはなかったし、それが気分を害することなんだ、というのも少し配慮が欠けていた。大きな舌打ちとともに、彼のいら立ちをぶつけられたような気がして、やってしまった、思ったころにはもうどうしようもない状態になっていたというか。
「ごめん」
「いや、別に。俺もカッカしてただけだし……いや、それをぶつけていい理由にはなんねえけどよ」
負の感情を増幅させる場所であるから。それは理解しているし、仕方ないと、私はアルベドにいった。でも、彼自身のプライドがそれを許さないと、何度か彼は謝罪の言葉を口にし、その後、大きなため息をついた。
この空間の危険さというのはアルベドも十分に理解しているはずだ。そして、理解しているからこそ、腹が立つというのもあり得るのかもしれない。自分では抑えられない衝動というか、抑えがたい衝動というか。
本能的なもの、それに近しいものと考えてもいいのではないだろうかとすら思う。どうしようもない苛立ちというのは人にはあるだろう。
それを、しょうがないとか、仕方ないという言葉で表されることが、アルベドは嫌いなのかもしれない。
(――ってもう、そういうのはいいから!まずは、この状況をね……)
「核を探そう。そして、早くこんな空間から出よう」
「だな。それは同感だ。ここが広いのは今に始まったことじゃねえし。とっとと、出る。それが正解だな」
「だよね……はあ」
「どうしたんだよ。お前もあれか?」
「あれじゃないし。じゃなくて、すっごく腐ったような臭いというか、ベタベタしてて気持ち悪いっていうか」
「そういうの気にするタイプだったか?」
「え!?これでも、ちゃんと乙女してますけど!?」
いったい、私のことを何だと思っているのだろうか。
さすがに、臭い匂いとか、全身ベタベタになるとかは、さすがの私でも嫌だし、耐えがたいことなんだけど。それに、アルベドだって貴族なのに、そういうのを気にしないところが少しダメというか。貴族だから気にするべきだ! っていうのは違うとは思うけれど、何で平然としていられるんだろうか。
「俺は、血は慣れてるからな」
「いや、それは慣れちゃだめでしょ。じゃなくて、臭いじゃん。めっちゃ臭い!離れてあるこ」
「いや、変わらねえだろ。離れても、離れなくてもこの匂いはしょうがねえって……」
毎回、入るたびに構造は変わるし、広すぎるこの空間は終わりがない。入った人を永遠に閉じ込めておくようなところが趣味悪いところであり、そして、それが何よりもラヴァインのことを連想させてしまうから、彼がこの犠牲を払って作ったっていう人工魔物を……と思うと胸が痛い。
それにしても、今回はなんというか、イレギュラーなことばかりが起きているので、気を引き締めなければならない気がするのだ。外側の攻撃に加えて、内部もなんだか不気味。いつも不気味だけれど、そういうのとは比べ物にならないくらい、不吉な感じが漂っているのだ。
今すぐここから出たい、と必死に思うくらいには不安をあおってくる内部構造になっている気がする。
(というか、私たちが落ちてきたのって、ここどこよ……)
どこなんて言う指標は、いつもないし、目印なんてこの空間にはないけれど、いつもだったら……いや、いつももなくて、毎回違うって言ってるけれど、なんだか、何でここに、沼のような場所に落ちてきたのかは分からなかった。
沼……血だまりみたいなところ。臭い匂いも、その血だまりか、沼か分からないところに落ちたせいだと思う。
「胃液とかじゃないよね。と、溶かされたりしない?」
「おもしれえ発想だな。笑わせにきてんのか?」
「いや、そうじゃなくて……あの肉塊にそういう人間と同じ器官があったらって考えちゃって。いや、怖い。普通に考えて怖いから今のなし!」
「ほんと、お前はコロコロと表情が変わって愛おしいな」
なんて、アルベドはフッと笑うと、私の頭を撫でた。彼の手は乾いていて滑ッとした感触はなかったけれど、身体にまとわりついた謎の液体はまだ粘り気を帯びていて、気持ちが悪い。
アルベドに頼んで風魔法で体を乾かしてもらったけれど、それでも感触が残っているというか、嫌な感じはぬぐい切れなかった。気持ちの問題なのだろうか。
(内部から浸食していくみたいな?)
と、考えたら最悪すぎて考えないように思考を放棄した。一人百面相をしていたようで、アルベドにはそれはもう馬鹿にされてしまったが、そんなことは些細な問題だった。
「はぐれたら危ないから、離れないように歩こう!」
「言われなくったって、そうするに決まってんだろ。お前、勝手にどっか行きそうだし」
「何で私がはぐれる前提!?」
「だってなあ……ステラだし」
「だから、どういう意味でいってんのそれ!?」
絶対馬鹿にされている。確かに、人ごみとか、ちょっとの方向音痴はあるけれど、そこまで露呈していないはずだ。言っていないし。それに、どう考えても、この状況でばらばらに行動したら一生会えないかもしれないっていうのに、そんなことするはずがなかった。ただ、からかっているだけなのだろうが、それが腹立たしい。
もう、と私はそれをただのからかいだと受け入れながら、気を取り直して、探索を開始するかと気を持ち直したとき、足もとで、ぶくぶくと何かが泡立つような音が聞こえ、耳を傾ければ、その音はしだいに大きくなっていった。
「――ッ、ステラ、離れろ!」
「え、何、――うぁああっ!?」
何かが足を掴む感触。食い込んだ爪が足を蝕むようで、私はバランスを崩してしまう。この沼というか、場所が何か変だと思っていたけれど、こんな攻撃、今まで――
このままではまずいとアルベドに手を伸ばしたが、彼の指先に触れす瞬間、ズズズズと、引きずり込まれてしまい、とぷんと音を立てたかと思えば、視界が真っ黒に塗りつぶされてしまった。




