菅浦のるるのかけ違い
間違いというものは双方か片方のふとした思いのかけ違いで起こることが多く、予期せず合間を縫って目の前に現れてしまう。
私の場合、見覚えが無い番号から届く突如無機質に鳴り響いた音だったが、何を思ったか気まぐれで着信ボタンを押してしまったことからこの物事を語らなければならない。
「こ……んばんは!」
ノイズ越しに聴こえたのは。眠気を誘う声では決して無い、夜に似合わぬその声は、はきはきとした女性の声。
新手の詐欺だろうか。横になっていたベッドから起き上がり、月明かりがカーテンの隙間から覗く窓辺に寄りかかり、電話口の奥の声に耳を澄ませた。
出なければ良かった……と後悔もした。何かの悪質な宣伝でもしそうな声だったからだ。英語の教材か、電化製品でも売りつけられるのだろうか。
何も言わずにそのまま相手の声を待ってみると、勝手に喋りだすものだと思ったが、何一つ声が届かなかったので、切れたのか確認するべくゆっくり「はい……」と呟いた。
「……良……かった!」
電波が届きにくい場所にいるのだろうか。
「……私……ノル……ル!」
のるるだなんて聞き慣れない不思議な名前だ。
何かしらのハンドルネームでも使っているのだろうかと聞きながらと鼻声で返したのが悪かった。
「かけ違いだと思います」
彼女は涙を流している自分に気が付いてしまうのだから。
「いいえ! かけ……違いじゃないわ。私貴方……の涙を辿って……かけて来たんだもの」
無理矢理のような言いわけに内心苦笑しつつ「はぁ」と頷く。
ほら、勝手に突拍子もないような嘘を吐きはじめたじゃないか。
「切りますよ」
「ねぇ!」
さっさと着信を切ろうとしたが、切羽詰まった声に離そうとした耳をもう一度傾けた。
風の振動が寄りかかる窓に打ちつけるように伝わって来る。
「折角だし私とお話しない?」
「……」
「これも何かの縁だし」
徐々に電波が整ってきた相手の彼女の声はどうにもお人好しなのか、単純に馬鹿なのかどちらだろう。
電話のかけ違いに尊い縁なんてものが存在するのだろうか。
私は正直この時、雑音無しに静寂と共にいれば、巡る自分の感情を反芻することになりながら目を閉じることなく、朝日を浴びざるを得ないことが決まっていたので、仕方なしに夜のお供にすることにした。
「少しだけですよ」
「十分よ。それで、貴方はどうして泣いているの?」
彼女の声が純粋に疑問の含んだ声質へと変わる。
数秒、悩んだ後、オブラートに包みながら私は簡単に事情をまとめた。
「……一生一緒にいると思っていた子と会えなくなってしまったんです」
一つ吐き出せてしまえばつっかえていた言葉が崩れたパズルのようにボロボロと現れる。
「いつでも会えると思っていた大切な友人……いえ、友人以上の関係だった子が、私の目の前からいなくなってしまって……」
ぐずぐずになった鼻を何度か啜り、私は吐露した。
時計の針が刻む音を耳にしながら、電話越しののるるはふんふんと鼻を鳴らして頷いた。
「寂しいの?」
彼女の言葉に肯定するように頷く。
ゆっくりとした間を受けて、彼女は「なーるほど」と声を出した。
「いなくなってしまうのは仕方が無いわ。出会いと別れなんていつどこでどうなるのか、きっと神様さえ把握していないのだから」
「貴方、言っていること思ったよりポエミーですね」
「ふふ。詩人さんだから」
また嘘か本当なのか分からないような曖昧な回答を夜の海に泳がせた彼女との会話は、不思議と懐かしく感じてしまった。
「私、ずっと言えなかったことがあって……ずっと側にいると思っていたし、その子に伝わるとも、思っていなかったから」
「なんて言いたかったの?」
そう言われてしまうと、恥ずかしくなって声を詰まらせてしまう。
それでも、今目の前に現れた事象はかけ違いから生まれた縁なのだし、赤の他人同士の会話なんていつか忘れてしまうのだろう。
「……『ありがとう』って一言だけ」
だから教えた。過剰な言葉を使わない、単純な言葉だけれども、それだけの五文字を、伝えられなかった事実を、詩人もどきに。
「いなくなってしまってからの日々、私はずっと後悔しました。一度でも、きちんと言えたら良かったって。それなのに……目を覚ましたらどこにもいなかったんです」
嗚咽を交えて零した涙は頼りなさげな自分の声に重なり、弱さを示すような結果となってしまった。
無力な自分を、何も言えなかった自分を、赤の他人に晒し、痛くて脆い内情に自ら触れさせ、見えない身体に押し当ててしまう自分は、なんて。
なんて、弱い塊なのだ。
「ねぇ貴方」
電話越しの彼女は、柔らかな春の日差しのような声で言った。
「きっとね、その会えなくなった子に、その言葉は伝わっていると思うわ」
「……どうして」
「伝わっていなかったら、きっとその居なくなってしまった子、姿を消す前まで貴方の側にいなかったと思うの」
ふふ、と一つ笑った彼女の言葉に、何一つ確信を持てるような信用性は無かった。
それなのに、触れたくて触れられないラムネ瓶のガラスのビー玉のような答えに導いてくれたような気がしてならなかった。
「誰だって言葉で通じるのは当たり前だと感じるかもしれない。
「でも、それ以上にね、温度で感じる、空気で感じる……そうやって、生き物って昔から繋がっていたのよ。
「だから、きっと、貴方が伝えたかった『ありがとう』は、きっと……その子にずっと伝わっていたと思うわ」
そう言って、彼女の言葉は途切れ、無機質にガチャリと通話を切った音だけが自分だけ取り残された静かな一室によく響いた。
猫は死期が近付くと、主人の前から消えてしまうらしい。
翌日。朝食中に母親から聞いたことだった。
ずっと一緒にいた猫の『るる』はどこかに行ってしまった。
帰って来ると思っているから、死んでしまったなんて考えたくもないけれど。
私は高校に行くために少しだけ着慣れてくたびれた制服を着て、マフラーを巻いて、つんとした寒気を纏う外に飛び出した。
しかし、ふと一軒家の前に飾られた『菅浦』と書かれた表札が掲げられた下にあるポストを見つめる。
いつも、学校に行く私を見送ってくれたるるはそこでじっと見つめていた。
「行ってきます、るる」
白い息を一つ。小さく呟いてから私は学校へと駆け出した。




