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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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冷静ではいられない

パソコンに向かう成瀬さんのデスクに私はコーヒーをおいた。成瀬さんはそれに気がついて目線を上げる。私は笑って頷いた。


今日の成瀬さんは社内で仕事をしていた。余裕があるかと思いきや、手元のパソコンで恐ろしい勢いで仕事をしている。明日締め切りの資料の作成で、資料自体はずっと前にできていたけれど、今日新しいデータが報告されて少し修正が必要になった。その作業に昼過ぎから取り掛かっている。私は後ろからチラリとそれを覗き込んだ。

「これ、この間作った資料のバージョンアップした分だよ」

「そうなんですか?」

私の視線に気がついたのか、成瀬さんはパソコンの画面を私に向けて、簡単に説明してくれる。

「君がこの間まとめてくれただろ?あの…」

そう言って成瀬さんはこの間のデータを出して説明しながら、今日作っているものを指差す。そして私に向かってこれからの手順を簡潔に説明すると、成瀬さんは私のおいたコーヒーのマグカップを手にとった。

「ありがとう」

「いえ」

ふと振り返ると、そんなやりとりを松橋さんと林さんがじっとみていた。


「あの…」

私が声をかけると、二人とも気まずそうに苦笑いした。

「いや、成瀬くんが後輩にこんなふうに指導してるの、初めてみたから、つい」

「僕、成瀬さんからこんな風にしてもらったこと、まだないです」

松橋さんと林さんは珍しいものを見るように成瀬さんをみた。その視線を受けて成瀬さんが苦笑いする。

「失礼だな」

「本当のことよ」

松橋さんが笑顔で返すと、成瀬さんは苦い顔をした。

「見てる暇があったら、仕事しろ」

成瀬さんは手にいつもの万年筆をもって、仕事に戻る。横顔があきれたように、でもしっかり笑っている。松橋さんもそれをみて笑う。松橋さんは成瀬さんより年上と言うことや、性格的に穏やかなこともあって成瀬さんとも仲が良かった。


松橋さんは思い出したように口を開く。

「そうだ、牧野さん来てから歓迎会してないから、今度4人で食事にでも行こうよ」

松橋さんの提案に、林さんが早速のってきた。

「いいですね。いきましょう」

「突然だけど、今日は?成瀬君がいるなんて珍しいし、早く終わりそうじゃない?これを逃したらしばらく無理そう」

そう言って松橋さんは立ち上がって後ろから成瀬さんの仕事を覗き込んだ。

「これ、成瀬くんなら余裕で定時に終わらせられるんじゃない?」

少し挑戦的なその言葉に、成瀬さんは顔をあげた。でも顔は笑ったままだ。多分松橋さんのいう通りなんだろう。

どうする?と林さんと松橋さんの言葉に私はちらっと成瀬さんを伺った。


成瀬さんは行くかな?と考える。

営業では私が来た時も歓迎会もなく、その後も飲み会もなかった。総務の時は季節ごとに飲み会があったけど、営業は違うようだ。

それに、そもそも成瀬さんがそういう会に参加するだろうか?普段忙しいから、こんな時ほど休みたいかもしれない。

「成瀬くん、会社の忘年会も来ないからね」

松橋さんが私に小声で教えてくれる。

「女子社員が群がってくるのが嫌なのよ、だからわざと仕事入れるの」

思わず松橋さんの方を見ると、苦笑いした。

「もちろん全くそういう付き合いがないわけじゃないけどね」


やっぱり断りそうだな。

そう思って様子を伺うと成瀬さんは綺麗な長い指を鼻に添えて、少し考えた後で顔をこちらに向けた。


その答えを私たち3人が待っていると、成瀬さんはゆっくりとその形のいい唇を開いた。

「そうだな、たまにはいくか」

左側で聞こえた成瀬さんの返事に、私だけでなくて松橋さんも林さんも驚いて固まる。

「え?」

思わず漏れた言葉に、成瀬さんは逆に驚いたようだった。


「そんなに驚くことか?」

「珍しい、成瀬君が超積極的に参加するなんて」

「僕、成瀬さんと飲みに行くのなんて初めてかもしれません」

「ねえ、会社の忘年会すら去年は来なかったのに」

そういって驚いている二人を成瀬さんは苦笑いして、机に頬杖をついて私の方を見て笑った。

「まだ牧野さんの歓迎会もしてないしね…いこうか」

少し目を細めて小さく笑みを浮かべたその顔が美しくて、私は思わず見惚れてしまった。

「よ、よろしくおねがいします」

そう返事するのがやっとだった。後ろで林さんも喜びの声を上げた。松橋さんと林さんはどこのお店にするか、相談を始める。

成瀬さんと飲みに行くなんて、何だか信じられない。そう思って、でも胸が弾む。


ちょうどそのとき、奥平課長がドアを開けて部屋に入ってきた。少し顔がこわばっている。自分のデスクに戻るなり「成瀬!」とこちらに声をかけてきた。その声も硬い。いやな予感がした。

「あ、これアブナイ」

松橋さんが私に耳打ちしてきた。

「ああいう時の課長、成瀬君に仕事を振るから。しかも飛び切りハードル高いやつ、見てて」

林さんがデスクに突っ伏した。

「あーこれ、今日は終了のサインですよ」

また次の機会にしましょう、と早くも松橋さんが林さんに声をかける。私はドキドキしながら成瀬さんを見ていた。奥平課長は手にしていたタブレットを見せながら成瀬さんに説明して、成瀬さんはそれを真剣な顔で聞きながら、質問をする。

その顔は既に戦闘モードで、さっきまでのなごんでいた空気はもうなかった。成瀬さんは話し終わると、速足でこっちへ戻ってきた。戻るなり、ジャケットの上着を羽織る。

「今日はダメになった」

「はい」

私は素直に返事した。やっぱりという気持ちが大きかった。


「トラブルのヘルプをしてくる。これからでる」

「はい」

成瀬さんはパソコンを操作しながら私に今日の他の仕事の指示を出すと、先に下に行ってタクシーを捕まえておくよう頼んできた。

「あ、じゃあ、すぐいきます」

「必要なものを準備したら降りるから、下で待ち合わせしよう」

私は頷くと、小走りで廊下へ出た。


会社の外に出ると、空は曇っていた。私は、ソワソワしながら道路を見るが、こんな時に限ってタクシーはこない。すると会社から出てきた成瀬さんが目に入った。

「タクシー、なかなかこなくて」

私は謝りながら身を乗り出して車道を覗いて、タクシーが来るのを待つ。すると後ろからそっと腕がひかれた。そのままそっちを振り返ると、そこには困ったような顔をした成瀬さんがいた。


「悪い」

「え?」

「せっかくの歓迎会だったのに、こんなことになって」

成瀬さんが本当に飲み会に行くつもりだったことに、私は驚いて、首を横に振った。

「でも、仕事ですから仕方ないですよ」

そう答えると、成瀬さんは気遣うような目で私を見てくる。

「だけど、残念そうな顔をしていたから」


言われて、ドキリとした。

ダメだと決まって、やっぱり残念だったのは事実だ。だけど、そんなに顔に出ているとは思わなかった。小さく頭を下げる。

「すみません、でも仕事ですから仕方ないです」

「よければ、松橋さんと林と3人で行ったら?」

成瀬さんはさらりとそう言った。

まるで、自分がいないことなんて、なんでもないことみたいに。


だけど私はそれを聞いてすぐに首を横にふった。

「いいの?」

行けばいいのに、成瀬さんが不思議そうに私を見る。私はもう一度首をふった。

「成瀬さんが仕事をしてるのに、飲みに行っても、楽しめないです」

私は視線を下げて、もう一度口を開く。

「それに、成瀬さんもいないですし」


そう言って成瀬さんを見上げる。本当はそれが1番の理由ですと言いたかったけれど、言えない。私は黙ったまま彼を見た。視線のあった成瀬さんは、少し眩しそうに目を細めた。私はそれをじっと見ていた。

どのくらい見つめあっていたのかわからないけれど、ちょうど遠くから走ってくるタクシーが見えて、私は前に出てタクシーに向かって手を振った。タクシーが減速して私たちの前に停まる。


私は成瀬さんに振り返って口を開いた。

「私が成瀬さんをちゃんとお手伝いできるようになったら、その時、連れて行ってください」

言いながら、そんなことずっと先になっちゃいそうだな、と思ってしまった。

だって、私は本当になにもできていないから、「その時」がいつかも、来るのかもわからない。


それは寂しいことだけど私は笑って続けた。

「その時は、たくさん奢ってもらいます」

成瀬さんはそれを見て、目を丸くする。私の腕をつかむ手に力が入った。それから視線を逸らせて、笑って小さく首を横に振る。

「この埋め合わせは必ずするから」

そういって反対の手がすっと私へと伸びてきた。

その手は真っ直ぐに私の頭へ伸びて、私の頭の上で止まる。


私は驚いて成瀬さんを見上げた。

成瀬さんはじっと私の目を見て、ふっと表情を緩めると、その切れ長の目を細めて笑った。いつも鋭いその目が優しく光って私を見る。

その目がとても優しかったことに、その笑顔がとても綺麗だったことに、

私は驚いて、でもそのせいだけでなく、私の胸が大きく鳴った。


成瀬さんはそのまま手を動かして、私の頭を軽く2回撫でた。

私はもっと驚いて、思わず息を飲んだ。

成瀬さんは私と目が合うと、今度こそ、しっかりとその顔を綻ばせて笑った。


だけどすぐに静かに手を引いてしまう。彼の手はあっという間に私の頭から離れる。だけど、その手が自分から離れていくのから、目が離せなかった。

離れないで欲しいと、反射的に思ってしまう。


「じゃあ、いってくる」

タクシーへと向かう、その後ろ姿に声をかける。

「き、気を付けて…頑張ってきてください」

成瀬さんはタクシーに乗り込むと顔だけこちらへ向けて、軽く手をあげた。

その顔はさっきと同じ甘いものだったけど、タクシーが発車して前を向いた顔はもう仕事モードに切り替わっていた。


タクシーはすぐに速度を上げて見えなくなる。タクシーが見えなくなって、私はようやく息を吐く。

きっと今の私の顔は真っ赤だろう。

あんなことされたら、冷静ではいられない。


だけど、その瞬間を思い出す。

多分、ほんの数秒の出来事。だけど、それが私をとても幸せな気持ちにさせてしまう。


その時道路で大きな音がして、我に返る。

いつまでもこうしてはいられない。私は頬に手を当てながら、会社に戻るために歩き出す。


ビルに入る前に見上げた空は真っ黒で、今にも雨が降りそうだった。

なんだか嫌な天気だな、そう思って急いでビルに入った。


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