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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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少し、縮まった距離

そこから先は本当に大変だったけれど、なんとか日付けの変わる前に全てが終わった。書類を探し終えたら、デスクに戻って、資料の修正作業をする。成瀬さんの指示は的確だけどいつもの数倍も早くて、ついていくだけで必死だった。夢中になって仕事をしてなんとか終わった。


「終わった」

私は椅子の上で息を吐いた。

「お疲れ様、思ったより早かったな」

成瀬さんは私と反対にいつもの涼しい顔のまま、後片付けをしている。それを見てタフだなあ、と思う。私はお腹もすいたのを通り越して、もう話す元気もなくて、椅子に座り込んでいた。終電は全力で走れば間に合うが、そんな元気はもうない。

タクシーか、と思いながらボーッとしている私に上司の声が降ってきた。


「早く帰る支度して」

そんな声が降ってきた。

「え?」

私が問い返すと成瀬さんはバッグから車のキーを出した。

「今日車だから、送っていくよ」

成瀬さんの家はもちろん知らないけれど、今から私を送ってから帰宅だと確実に遅くなる。

「遅くなるので、良いです」

断った私に、成瀬さんはこともなげに返事する。

「もう電車ないだろう?遅いから道路も空いてるし、大して時間は変わらないよ」

そう言って、私の家の住所を確認する。こんなに遅い時間にいいのだろうか?迷って、私は成瀬さんを見上げる。視線を感じたのか、成瀬さんは私を見た。

「本当に、いいですか?」

成瀬さんは私の目を見て笑った。

「こういう時の上司の言葉には素直に甘えて」

そう言ってくれたので、思い切って甘えてしまうことにした。


成瀬さんの運転はとてもうまかった。私たちは車の中で話して、今まで知らなかった事を知る。お互い方向は少し違うけど、電車ですぐの場所だったこと、成瀬さんは仕事によっては車で出社すること。

実は仕事以外の話をしたのは、初めてだった。

私がそう思っていると、成瀬さんも隣で

「君とは一緒に働いていたのに、こんな話をするのは初めてだな」

としみじみと呟いた。それを聞いて思わず私も笑ってしまった。


黒く光るドイツ製のクーペは、流れるような形が綺麗で成瀬さんによく合う。仕事の時は社用車で、これは通勤用だそうだ。

「成瀬さんらしい車ですね」

「俺らしいって、どういうイメージ」

ハンドルを動かしながら、成瀬さんが訝しげに聞き返す。その少しくだけた口調や話す内容に少し驚いた。


今日一日で、今まで一緒にいた分も超えるくらい長い時間を過ごした気がする。そしてその過ごした時間も、濃かった気がする。

たった一つ、一緒に仕事をしただけで、何だか私たちの距離がほんの少し、縮まった気がした。


その証拠に会話が、親しいものになる。初めて聞いた話がたくさんあった。

彼が口にする『俺』という一人称も初めて聞いた。

車に乗せてもらったことも、それを聞いたことも

たくさんの事が、一番私を落ち着かなくさせる。


私は少し考えて返事する。

「シンプルで、無駄がなくて、シャープな感じですかね?」

成瀬さんは苦笑いした。

「俺のイメージって、そんな感じなのかな?」

そう言って納得の言っていない顔をして、曲がり角で大きくハンドルを切る。赤信号で車を止めた。こちらを見る顔が、意地悪そうに笑う。

「じゃあ、君は見た目がおとなしそうなのに、こうと決めたら頑固で絶対に引かないね」

私はそれに思わず目を丸くする。


いつも頑固頑固と言われているけれど、そこまでだろうか。

「いつもそう言われますけど、そんな頑固ではないと思います」

いつになく厳しい言われ方に思わず反論すると、成瀬さんは私を見た。

「そんなことはないと、胸を張って反論するよ」

話した内容はキツいのに、その顔や口調は今までとは違って、優しく感じる。

その顔があまりにも素敵だったから、もっと言いたいことはあったのに、言い返せなくなってしまった。

成瀬さんはあっという間に前を向いて、車を発進させた。それを少し残念に思う。


外のネオンや街灯が車の中に差し込んで、彼の顔を照らす。

静かに落ち着いている整った顔が、口元が少し上がっているから、優しく写る。


あんな顔をこんな夜に見せるなんてずるいなあと思う。

あれを見て、気持ちが動かない人はいないと思うくらい、素敵だった。それをこんな疲れた夜に見せるなんて。

彼を見る私の胸は落ち着かない。暗い車内でも、顔は赤くなっている。隣のこの人に、それが分かるくらいには。

だから仕方なく、私は外を眺めた。赤くなる顔を見せたくはなかった。


道路が空いていたので、私の家まではあっという間だった。だけど、それを恨めしく感じる。もう少し、一緒にいたいと思った。

こうして隣で車に乗っているのが、なんだかとても心地良くて。

信号が赤になって欲しいと思うのに、こういう時に限って、車は止まることなく進んでいく。


家の近くで車を止めて、成瀬さんは私の方を見た。

「じゃあ、お疲れ様」

私はお礼を言って、では、と言ってシートベルトを外して車を出ようとして、思い立って成瀬さんに向き直った。

「あの」


私は口を開いた。

「私、まだできないことばかりです。でも、成瀬さんのアシスタントとして頑張ります。だから、」

もう一度大きく頭を下げた。

「これからも、よろしくお願いします」

私は顔を上げる。成瀬さんの顔を見る勇気はなくて、そのままも車のドアを開けて外に出た。ドアを閉めようとした時に、背中に

「待って」

と声がした。


運転席にいた成瀬さんが車を止めて、ドアを開けて出てきた。私は驚いて立ち止まったまま、彼が車の前を回って私の方へ来るのを見ていた。成瀬さんは私の前まで来ると、口を開いた。

「今日はありがとう。キミがいてくれて、助かった。ありがとう」


予期せぬ言葉に私は驚いて、ただぼんやりと立ち尽くした。

少し後でじわりと喜びが浮かぶ。

助かった、なんて言ってもらえると思わなかった。だから、それがとても嬉しい。

一緒に働いて、今、一番嬉しいと思った。


成瀬さんはそんな私に右手を伸ばしてきた。目でその手を追うと、その手は私の顔の横に伸びてくる。

「え?」

驚いて固まった私に対して、成瀬さんは私の耳の横の髪に触れた。

目を丸くしたまま、成瀬さんを見ると、成瀬さんが笑った。


「ごめん、髪にホコリがついてた」

それを聞いて私は顔が真っ青になるくらい、驚いて、同時に恥ずかしくなった。

「すみません…」


さっきの資料室だ。ホコリだらけの資料を漁って、終わってから綺麗にしたはずだった。これを付けて何時間も一緒に働いていたとか、さすがに耐えられない。あまりの恥ずかしさに、私はしばらくはっきりと動揺した後で、最後に大きくため息をついた。


じっと視線をあげると、成瀬さんはそんな落ち込む私を見て、視線が合うと笑った。

よっぽど私が情けない顔をしていたのだろ。少し我慢していたけれど、耐え切れないといった風に、笑顔がこぼれた。

おかしくてたまらない、と言った顔は、いつもの大人びた様子からは違う、幼い顔だった。

飾らない、素のままの笑顔。


それを見たらこの顔がずっと見たかったんだな、と思った。

本当はもっとこんな顔が見たい。こんな風に、たくさんの時間を一緒に過ごしていろんな顔が見たい。そんなことを思った。


目の前の成瀬さんは、手で口元を隠して笑っていた。その肩が少し揺れている。

こんなに笑っていることに怒るべきなのに、それを嬉しいと思ってしまう自分がいた。


だけど、成瀬さんは、しばらく笑ったままだったから、流石に長いと、恨めしく見てしまう。ようやく成瀬さんは私の視線に気がついて、急いで笑いを止めると、口を開いた。

「おやすみ。また明日」

そう私にもう一度笑いかけて、車に戻った。エンジンの音がして、私は慌てて声を出す。

「お疲れ様です…ありがとうございました」

窓が閉まっていて、きっと声は届かなかったと思う。

だけど、窓ガラス越しの成瀬さんは笑っていて、私が手を振ると、小さく左手をあげて、車を発進させた。

その車が見えなくなるまで、私はずっとそこに立っていた。

ほんの少し前の、彼の笑顔を思い浮かべながら。



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