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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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今を、変える

「牧野さん、成瀬は?」

「今日は千葉です」

課長の問いに私はボードを指差しながら返事した。課長はそうか、と手を顎に当てて考えるような仕草をした。

「何かありますか?」

そう問うと、課長は私に資料を差し出した。

「この間成瀬が出した資料、手を加えて欲しいのと資料を添付して欲しい。明日までにお願い」

課長は私に向けていうだけいうと

「まあ多分、成瀬ならすぐにできると思うけど」

と締めくくった。追加された仕事はそれなりに多く、面倒で、時間はかかりそうだ。


そのリストを見ながら悩む。

本来ならそのまま渡して指示を仰ぐけれど、今は不在だ。

戻ってから始めたら、終わるのは遅くなるだろう。今日は社用車で出ているから、連絡もしづらい。そして、手間がかかる仕事を机の上に放置で帰るのも気まずい。

指示された資料を揃えるくらいなら、してもいいかもしれない、多分…。そう勝手に判断した私は、そっと作業を始めた。


***


私は腕を組んで、ため息をついた。大体の資料は揃えたけれど、まだ全部ではない。

「林さん、すみません、これ」

私が課長から渡されたリストの中身を指差すと、林さんはそれを見て首を傾げる。

「この辺の資料は古いから、ここにはないかな」

「じゃあ、資料室か」

資料室は会社の奥にあって、暗い臭い、探すのも大変、で行きたい場所ではない。ただ、そこを探せば、目当てのものはあるだろう。


私は立ち上がった。隣で林さんが驚いたような顔をする。

「え、牧野さんいくの?」

「行くだけ行ってみます」

「あそこで探すのは大変だよ」

「でも、探さないで止めるのも」

「多分無いなら無いで、成瀬さんならなんとかすると思うよ…」

勝手にやって、中途半端な仕事をだすわけにもいかない。私は資料室へ向かった。


私は資料室に入ると、まず全体の棚を確認する。棚にはファイルが綺麗に並べてあったけれど、部屋の隅に積まれた大きなダンボールには、大量のファイルが乱雑に詰め込まれていた。その中にあったら嫌だなと顔をしかめた。

私はある程度の目安をつけて探す。壁一面に天井に届く高さまである本棚は、私には高すぎる。手が届かないから、その度に脚立を移動して登り降りするのは面倒だし、上の棚の物は取り出すと埃が落ちてきて、結構キツかった。

だけど、探せば目的のものは見つかる。見つけたものは閲覧用の机に置いて、リストにチェックしながら、ほっとした。


時計はいつの間にか19時を越していた。勢いで探し始めたけれど、もしかしたらやる必要のない仕事かもしれないと不安になる。実際に成瀬さんは資料がなくても、うまく仕事をこなすだろうし…これをすでに持っている可能性もある。

その考えに、思わず頷いてしまう。

あの人が見た事ない不確かな情報を使う事はないだろう。だから、必要なものは持っていて、私のこの努力は無駄かもしれない。そう思っても、なんとなくやめられなかった。

できれば、成瀬さんが戻る前に、全部を彼の机に置いておきたい。もし、一つでもかけていたら、やっていないのと同じ気がする。そんなどうでもいい意地のために、私は頑張っていた。


多分、私は名前だけのアシスタントから、抜け出したかったのだと思う。何かをする事で、私たちの間のたくさんの事を変えられるような気がしていた。


脚立にのって高い棚のファイルを漁っていた時だった。

「牧野さん?」

後ろで音がしたと同時に、声がかかった。私は脚立の上に乗ったまま振返るけれど、背伸びをしていたためか体のバランスを崩してしまう。そのせいで視界がぐらりと揺れた。

「危ない!」

声がして、倒れる、と思った瞬間、人影が動いて私の体は誰かに抱き留められた。代わりに手にしていたファイルは床に落ちて、大きな音を立てた。その音に思わず目を瞑った。

少しして恐る恐る目を開ける。床にぶつかっていない事を理解して、ほっとする。

私を支えてくれていたのは成瀬さんだった。


私の体はちょうど横から成瀬さんに受け止められていた。多分、彼がいなかったら、間違いなくホコリだらけの床に倒れていた。それを助けてくれた腕は太くて、触れた体は意外にも硬くしっかりしていた。

見下ろしているその顔が、とても近いところにあることに気がつく。そして自分の体が、彼の体と重なっていることも。


まるで抱きしめられているみたいだ。

そう思ったら、急に恥ずかしくなって、あっという間に顔が赤くなった。


「良かった、落ちなくて」

ため息と共にそんな声がして、私は我に返る。

「悪い、声をかけなければよかった」

初めて見下ろした上司は、苦い顔をしていたけれど、私と目が合うとはっきりと非難がましい目をした。


「あ、ありがとうございます」

成瀬さんはため息をついて、だけど丁寧に私の体を脚立の上で安定させると、手を離して、今度は身をかがめて床に落ちたファイルを拾った。その隙に私は脚立から降りる。

「すみません。ありがとうございました」

成瀬さんはファイルの中身をめくって小さく息を吐くと、腕を伸ばして、それをさっきまで置いてあった本棚の中に戻した。

成瀬さんは私に向き直る。その顔は眉が寄って、どう見ても不機嫌だった。彼の後ろに怒っているオーラが出ていた。不機嫌な理由は、私が報告をしていないことと、勝手に仕事を始めたことの二つだろう。脚立から落ちそうになったことも、加わるかもしれない。


「あ、あの、課長から頼まれたことがあって」

沈黙に耐えられず、私は口を開いた。

「明日の会議の資料で、追加資料の指示や、手直しがあったので、戻ってきてから成瀬さんが一人で取り掛かると大変だと思って…」

向けられる視線が厳しいから、思わず語尾が弱くなる。弁解しても、怒りは治っていないようだ。それにますます焦る。


成瀬さんは、私を見て、はっきりとため息をついた。

「じゃあ、まず報告をするべきだろう」

それはもっともだった。思わず返事する声が小さくなる。

「そうしたら、椅子から落ちることもなかったのに」

成瀬さんは苦い顔をした。


成瀬さんの手には、課長が渡した資料のリストがあった。私はそれのコピーを持ってきたから、原本は集めた資料とともに自分の机の上に置いてきた。

おそらく私の机を見て、なぜ私がいないのか、何をしているか理解して資料室に来たのだと思う。


「もしかして、資料は全部ありましたか?」

成瀬さんはそれには返事をしないで、私を見下ろした。私が閲覧用の机に置いたものを見てチェックしている。

「もう遅いし、あとはこっちでできるから大丈夫。帰っていいよ」

お疲れ様、そう言って、持っている紙を顔まであげた。

「君がだいぶ揃えてくれたから、あとは一人でできる」

「でも、少しお手伝いします。この時間から一人でやるの、大変ですから」

「遅くなるからいいよ」

「でも!」

やります、という言葉は成瀬さんのため息に遮られる。はっきりと見せられた拒絶に、私は言葉を飲み込んだ。成瀬さんは肩を竦めて、少しだけ苛立ったように眉を寄せた。

「君、頑固だな」

そう言ってため息をつく。


彼に頑固だと言われたのは初めてではない。気持ちが落ち込みそうになるが、私も引けなくなってしまった。

「できることは、少しでも手伝いたいです」


その時の私は必死だった。

これで帰ってしまったら、いつまでも私と彼の距離はこのままで変わらない気がした。だから私は彼の目を逸らさずに見つめ返した。


成瀬さんは私の視線を受け止めて、少ししてそれを逸らせた。そのままどのくらい時間が経ったのかわからない。ため息をついて成瀬さんが動いた。


「残りの資料、全部揃ったら持ってくるように」

「じゃあ…」

戸惑って聞き返すと、成瀬さんは手にしていたリストにいつもの万年筆でチェックを入れて、私にリストを渡した。

「印がついているものが必要で、あとはいい。時間が遅いから、早くするように」

そういうと、私に背を向けて歩き出した。

「すぐに終わらせます!」

私はその背に向かって叫ぶと、成瀬さんは返事もなく出て行った。ドアが閉まると、今度は私がため息をつく番だった。


多分、いや絶対に怒らせた。

一人取り残されて、私は俯く。


最近少し優しかったから、ちょっといい気になっていたかもしれない。きっと呆れている。

そう反省しても今更遅い。だけど、仕事を放棄して帰ることもできない。私もため息をついて、棚に向かうともう一度ドアの開く音がして、私は振り返る。


そこから入ってきたのは、成瀬さんだった。いつものように早足で閲覧用のデスクの上に持っていたノートパソコンを置くと、椅子に座った。

その一連の動作をぼんやりと見つめていると、成瀬さんは顔をあげて私を見て、それから壁にかかった時計を指さした。

「さっきも言ったけど、時間、遅いから急いで」

「はい」

私は慌てて棚に向かう。そんな私に遠慮のない声が飛んできた。

「ただ資料を出すだけじゃない。それを会議に出せる形にするまで終わらない」

「はい」

成瀬さんの顔は真剣だった。これからの仕事の流れを説明する。

「それから」

成瀬さんの言葉が止まって、私は振り返る。視線が合うと、成瀬さんはそれを逸らせた。

「高い棚のものを取るときは声をかけて。落ちて怪我されても困る」

そう言ってパソコンに目を戻した。

「ここにいるから」


言われたことが理解できなくて、私は驚いて目を見張った。

私のために、ここにいてくれるってこと?

それは多分、その通りなのに。私は信じられない思いで、成瀬さんを見つめる。成瀬さんは私を見て、自分の腕時計を指差した。

「時間見て。急いで」

「はい!」

私は慌てて返事をする。その後に目のあった上司は私を見て、ふっと表情を綻ばせた。彼の顔に優しさがよぎって、それは私の心をしっかりと弾ませる。

私は笑顔で頷くと、成瀬さんはもうパソコンに向かっていた。それを見てから、私はもう一度棚に手を伸ばした。


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