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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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縮まる距離と縮まらない距離

営業での初勤務日、私は緊張しながら会社のエントランスをくぐった。

普段は人で賑わっているビルのエントランスも、早い時間だと驚く程空いている。エレベーターを昇ってフロアに降り立つと、大きく息を吸った。


今日は頑張って早起きして、いつもよりずっと早い時間に会社に来た。

成瀬さんの今日の予定を見たら、通常の出勤時間に行っても会えない可能性が高い。帰りもいつになるかわからない。初日から上司に放置されるのは困るから、絶対に朝に捕まえておきたい。と思って早くきたものの、約束していないので、会える保証はない。

「気が重い」


「おはようございます…」

誰もいないだろうと思いながら部屋に入ると、おはよう、という返事が返ってきた。急いで見るとそこにいたのは成瀬さんだった。

立ち尽くした私を、成瀬さんは振り返って、またすぐにパソコンの画面に向き直った。

「おはよう」

早いって…それは成瀬さんの方が、とか、こんなに早い時間にもう仕事?とかたくさんの驚きが襲ってきて、言葉に詰まったまま、ぼんやりと立ちつくす。すると成瀬さんがもう一度振り返って

「こんな早くに偉いね」

と、声をかけてきた。

私はそれを聞いて我に返り、成瀬さんに向かって頭を下げて挨拶する。もう一度成瀬さんはパソコンから視線を外して顔を上げると私の方へと顔を上げた。

「こちらこそよろしく」

その顔は静かで、ものすごく普通だった。


「今日からお世話になります」

そう言いながら、首から下げた社員証を差し出そうとしたら、成瀬さんの声がした。

「牧野里保さんでしょう、ちゃんと覚えてるよ」

覚えていてくれたことに驚いて、なんとなく、それを嬉しく感じる。


ふと成瀬さんの机を見たら、もう昼間みたいに仕事をしている。一体いつ出社しているのだろうと思った。

「ずいぶんはやいね」

成瀬さんは自分の時計を確認しながら、いつもこの時間?と聞いてきた。

「あ、今日はこの時間に来ないと成瀬さんに会えないと思って」

その答えに、成瀬さんは目を見張った。だけどすぐに元の顔に戻って私の顔を覗いた。

「じゃあ、早速だけど、業務の説明をしていい?」


成瀬さんは簡潔に業務の説明をしてくれた。

そのわかりやすい、まとまった説明を聞くだけで、彼の優秀さがわかるようだった。昨日少し話を聞いていたことを抜いても、とてもわかりやすかった。

私が頭の中で言われたことを整理していると、早速声がかかった。

「早速仕事お願いしても、いい?」

私は慌てて顔をあげた。意気込んで首を振ると、じっとこっちを見る成瀬さんと視線があった。


黒い真っ直ぐな髪の間から黒い瞳が覗く。朝の光が窓から入って、彫りの深い顔に影を落とす。私を見下ろす瞳は伏せがちで、影が入ることで、彫りの深い鼻から顎までのラインがくっきりと見える。思わずドキリとするほど綺麗で、なんというか男の人なのに色気があった。


この人、光が入ると本当にきれいだな。


思わずみつめていると、彼は口を開いた。

「コーヒー、お願いしてもいい?」

予想もしない依頼にちょっと驚いて、でもすぐに私は笑顔でうなずいた。


私の営業での初仕事は、成瀬さんのためにコーヒーを入れることだった。

彼は一口飲んで、少し体の動きを止めて、それから私へ顔を向けた。

「美味しいよ、ありがとう」

それは、特別でもなんでもない本当に普通のコーヒーなのに、とても綺麗な顔で笑って褒めてくれたから嬉しくなる。

「ありがとうございます」

隣の上司はありがとう、と言うと、すぐに仕事に戻っていた。その顔はもう、笑顔はない。


ふと、あの時見た優しい顔を思い出す。

今日の顔も綺麗だけど、多分ビジネス用。とても美しい、だけど作られたみたいな顔。


あの時の笑顔の方がずっと良いのに。

思わず、そう思って、それを誤魔化すように、私はデスクの上のパソコンを立ち上げる。

昨日まではこんなに近くにいることもないだろうと思っていた。

こんなに近くにいるだけで、すごいことなのに、と自分に言い聞かせながら。


***

それから1週間たった。

私はパソコンを前に大きくため息をついた。


「牧野さん、どうしたの?」

隣の松橋さんから声がかかる。私は苦笑いして松橋さんへと顔を向けた。

「成瀬くんのアシスタント、慣れた?」

アシスタントになって1週間がたった。私がまだアシスタントでいられるか、いつ降ろされるのか、みんなが注目していた。


「でも、1週間、何事もなく過ごせてるって、良い方だと思うけど」

「そうですか?」

私はため息をついた。

「それなら、いいですけど。でも。微妙です」

「そうねえ。ある意味そっけないのはいつも通りかな」

松橋さんは苦笑いした。私はもう一度ため息をつく。


1週間、事件はない。

だけど、やっぱり噂通りだった。

成瀬さんが今まで通り、仕事を全部ひとりでやって、私は何もしていないに等しい。

もちろん簡単なことは頼まれる。だけど、大事なことはとても自然に私を素通りする。

最初は異動した直後だからと思ったが、そうでもない。定時になると、成瀬さんは私に今やっているものが終わったら、帰っていいよ、と声をかける。だけど、まだ成瀬さんは忙しそうだから、手伝いを申し出ても笑顔で断られる。


その時の笑顔が、またなんというか、すごい。

最初も見た、見た人が見惚れてしまうような、だけど、感情のない営業用の笑顔。

とても素敵なその笑顔で、彼は全てを遮断する。

人って、笑顔で拒絶できるんだ。

そんなことを実感した。


全ての理由は、私がまだ信用されていないからだ。

たった1週間一緒に働いただけで、信用なんて笑ってしまうけど、なんとも言えない気持ちになる。


「何だか。成瀬さんにアシスタントは必要なんでしょうかね」

独り言みたいに呟くと、林さんが苦笑いした。だけど、そう思っても仕方のないくらい、私は存在意義のないアシスタントだった。

私はため息をつきながら、成瀬さんに頼まれた以前の資料の整理を始めた。

「あ、それ」

私の手元を見ていた松橋さんが声をあげた。振り返ると、松橋さんはその資料を懐かしそうに見つめる。

「これ、懐かしい。すごく昔のだ」


それは今、手掛けているシステムの初期版の資料だ。整理を頼まれたと言っても、以前にある程度片付けられているから、そこまで大変でもない。でも、量が多いからそれなりに時間はかかる。現に他のアシスタントたちは、その仕事を言い渡された私を気の毒そうに見ていた。

「その仕事、一番最初に手掛けたのは成瀬君なんだよ。あまりにも新しくてみんな驚いたの」

そう言ってファイルを一冊手にとる。

「懐かしい。今となっては普通だけど、その時はすごく革新的だったの」


自分が持っている資料を見る。

いま、この会社の最前線の仕事。おそらく一番期待をされている仕事。その始まりはこのファイル。それを生み出したのは、成瀬さん。今もその中心にいるのも、成瀬さん。


そのことに、何だか心が動いた。

そのファイルを見たら、成瀬さんがなぜすごいのか、本当に少しだけど、わかったような気がした。


思わず、独り言を呟いた。

「私、もっと頑張らないと」

あの人の隣で働くために。


なんとなく、あの時自分の中で何かが変わった気がする。

それからは、自分の仕事も、他の人が嫌がるような雑用も、他の人の手伝いも率先して手をあげて取り組んだ。


一生懸命やっていたら、いつか、私が成瀬さんの力になることができるかもしれない。

そんな思いが、私を動かしていた。


それからもう一つ。地味に私が続けたことがあった。

それは毎日、朝早く出社すること。成瀬さんは朝早く出社して、仕事を始めてるから、私も同じように朝早く出社して仕事を始めた。


私の一日の最初の仕事はコーヒーを入れること。ブラックコーヒーは成瀬さんで、私は砂糖なしのミルクだけ入れる。それを飲みながら朝の静かなオフィスで、私たちは黙々と仕事をする。


成瀬さんは私に、何も言わなかった。朝早く来てほしいとも、来なくてもいいとも。

言葉を交わすことはほとんどない。時折ごく簡単に交わす言葉も、仕事のことのみ。静かなオフィスに二人のタイピングの音が聞こえる。


本当に時々、普段は素っ気ない彼の優しさを感じる時があった。

それとなく、わからない事を聞いてくれたり、ふと質問した時に時間をかけてゆっくり説明してくれたり、本当に何気ない、他の人からしたら簡単なことかもしれないけれど。


私が頑張れる理由は、やっぱりこの人だった。

たまに見える優しさが、笑顔がとても嬉しくて、また頑張ろうと思える。


今まで地球何周分も離れていた距離は、地球半周分くらいには縮まったのではないだろうか、なんて思っていた。

とても単純で、自己満足だけれど、その時の私はそれで満足だった。

それがとても嬉しかったから。


ただ、そばにいたかったのだ。



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