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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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ため息ばかりの午後

昼過ぎに、私は営業一課へ向かい、フロアの奥のデスクに座る営業一課の課長へ挨拶した。

ここの課長は社内でも有名な美形課長だ。目鼻立ちがはっきりしていて、細身の体で上質なスーツを着こなしていて、少し年は上だけど、十分に格好良い。

初めてあった時、何だか成瀬さんに似ているな、と思った。


「課長の奥平です。よろしく」

椅子から立ち上がると、そう言って右手を差し出してきた。

「よろしくお願いします」

私は恐る恐る、と言った感じでその手を握る。そんな私の行動はすでに営業中の注目を受けている。


私が成瀬さんのアシスタントになったという情報は、瞬く間に社内を、特に女性社員の間を駆け抜けた。成瀬さんが入社1年足らずの新米をアシスタントにつけるなんて。こんなイレギュラーな時期に、いきなり明日からなんて急すぎる。そんな声があからさまに聞こえてきた。

でも何よりも怖いのは、なぜこの子が?という視線を向けてくる多くの女性社員だった。


正直、理由なら私が聞きたい。

同期で一番美人でも仕事ができるわけではない。目立つ仕事もしていない。どういう経緯で私が選ばれたのかはわからないけど、我ながら謎な人選だ。

課長から午後の仕事はいいから、今すぐ挨拶と準備に回るよう指示され、今はこうして挨拶に来ている。


「今日は、成瀬は出ているから…ああ、この感じだと多分今日は戻らないと思う。詳しいことは明日聞いて。今日中に荷物は移動しておいて」

ホワイトボードで成瀬さんの予定を確認しながら奥平課長はてきぱきと指示する。

「はい」

「簡単な流れは、説明してもいいけど…成瀬の方法もあるから、本人に聞くのが一番かな。成瀬が君に求めるものは俺もわからないから、それとなく考えて対応して」

その指示に内心目を見張る。社内イチのエリート社員の頭の中を先回りしろなんて、ハードルが高い。息を飲んだ私を見て、奥平課長がクスッと笑った。

「総務に残留希望出そうとしたんだって?」


思わず目を丸くした。実は総務に残留希望を出そうとしていた。それがなぜバレているのかと、驚くと同時に少し怖くなる。ごまかそうと思ったが、諦めて早々に白旗をあげた。

「すみません…」

意外にも奥平課長は楽しそうに目を細めた。

「面白いね、成瀬のアシスタントなんて、ぜひなりたいっていう人の方が多いのに」

「突然のことで…驚きの方が」

「本当は嬉しいでしょう?」

そう言って笑いながら、でも目は探るようにこっちをみてくる。その質問に私は今度こそはっきりため息をついた。どちらかというと仕事外のことを示すような言い方だ。そんな気持ちには到底なれない。

「つとまるか心配で、不安で、緊張してます」


目が合うと課長は小さく頷く。

「成瀬の仕事は規模の大きい物が多いけど、どんなところでも対応はしっかりしているし、学ぶところが多いと思う。派手ではないところも見て欲しいな」


その言葉に、自分の仕事と私の仕事に差がないと言った成瀬さんをふと思い出した。ついこの間のことなのに、随分昔のことみたいに感じてしまう。

話しながら課長はフロア全体を見渡した。この中でも、とびきり忙しい人が成瀬さんだと、誰もが知っている。そんな人のアシスタントが務まるだろうか。


「それに、新人だから何事も素直に吸収できていいと言う考え方もある。成瀬もそう思ったのかもしれない」

「はい」

私が頷くと、課長はまた表情を緩めた。

「成瀬の仕事をみて、それでもいやだったら遠慮なく言ってくれ」

私は小さくがんばりますと答えた。

奥平課長は成瀬さんの机まで案内する。不在の成瀬さんのデスクの隣が空いていて、君の席ね、と言って課長は去っていった。アシスタントだから、近くの席になるのは当然なのに、それにも私は困ってしまう。

憧れの人と隣の席。気持ちが持つ気がしない。


荷物を片付けていると右隣のデスクの持ち主から声がかかる。

声をかけてきたのはショートカットの女性で松橋と名乗った。私も立ち上がって自己紹介する。

彼女は私へ顔を寄せて小さく声を潜めた。

「成瀬君のアシスタント、妬む人もいると思うけど、頑張ってね」

頷きながらそれが一番心配です、と私はまたため息をついた。ため息ばかりの私を見て、彼女は苦笑いする。

「私は成瀬君は仕事人間だから、あなたがそれに付き合って倒れるんじゃ無いかって心配しているくらい」

そう言って笑った。すると松橋さんの隣のメガネをかけた男の人が顔を覗かせる。細身の優しそうな人だった。話しやすそうな人だと、と少しほっとする。

「松橋さんのアシスタントの林です」

林さんにも挨拶して、机の整理に戻ると、また後ろから声がかかったので振り返る。


後ろにいたのは背の高い男の人で、私と目が合うと目礼した。私もあわてて立ち上がる。


淡いグレーのスーツを着ている長身のその人は、成瀬さんとは違うタイプだけど、世間一般的には十分にイケメンと言われる部類だと思う。成瀬さんといい、さっきの課長といい、営業は見た目の整った人が多いなと感じた。その人は私に頭を下げて挨拶する。

「柳原です」

「牧野と申します。明日からよろしくお願いします」

私もあわせて頭を下げた。顔を上げるとじっと私を見ている柳原さんと目があった。見つめる目がなんとなく、何かを含んでいる感じがして、居心地が悪くなる。柳原さんは私をじっと見つめて、口を開いた。

「君が、成瀬が選んだ子なんだ」

「え?」


柳原さんの言葉を、思わず聞き返した。その時、割って入るように隣の松橋さんから声がかけられた。

「牧野さんは明日からだから、柳原くんもよろしくね」

そう言って林さんを、振り返る。少し慌てたような早口だった。

「林くん、牧野さんと休憩に行こう。成瀬くんいないから、簡単に仕事の流れを私たちから伝えようか」

「あ、そうですね」

林さんも立ち上がって同意する。なんとなく私と柳原さんを離そうとしていると感じながら、松橋さんに返事する。柳原さんは、じゃあと手をあげて歩いて行った。私はどうしてかその姿から目が離せなかった。


松橋さんと林さんと3人で社内の休憩室に向かった。話を聞くと松橋さんは成瀬さんのひとつ上で、林さんは私の一つ上だった。二人共、どちらかと言うとガツガツしたイメージの営業の中では穏やかな印象で、何だか話しやすい。


2人はいろんな話を聞かせてくれた。

奥平課長は、見た目はソフトだけど、仕事は鬼が付くほど厳しい事。入社時の成瀬さんの指導係が奥平課長で、その時からの師弟関係だということ。

仕事人間成瀬をつくったのは奥平さんだよ、と松橋さんは笑った。なんとなく雰囲気が似ていたのもそのせいかと、納得できる。


営業は基本アシスタントと二人三脚という形が多く、成瀬さんのように一人でこなす人は他にはいない。その理由はやっぱり噂通りだった。

「今までのアシスタントって三ヶ月くらいで辞める子が多くて」

松橋さんは笑った後で、しんみりと呟いた。

「でも、営業としては一流だから。ちゃんと彼の仕事をみてほしいな」

課長と同じことを松橋さんも言った。


「松橋さんは成瀬さんを認めているんですね」

「昔、うまくいかない時に助けてもらったの」

その時を思い出したのか、松橋さんは苦笑いした。

「成瀬くんが私を立てながらうまく対応してくれて、ああいう交渉の仕方とか、私には真似できないな。年下だけど尊敬している」

松橋さんが先輩なのにと思う私の気持ちを察したのか、松橋さんは笑った。

「いろんな噂があるけど、基本は面倒見のいい、優しい人よ。だから牧野さんも安心して」

そこで向かいに座る林さんがところで、と言って身を乗り出した。


「牧野さんのこと、成瀬さんが指名したって噂になってますけど、本当ですか?」

「え?」「そうなの?」

思わず私と松橋さんの声が重なった。林さんは私の反応に驚いたような顔をする。

「いや、僕もうわさで聞いた程度ですけど、奥平課長にいい加減アシスタントを付けるように言われて、成瀬さんが牧野さんを指名したって聞きましたけど」

松橋さんが面白そうに目を輝かせてこっちをみる。

「成瀬君と一緒に仕事したこと、あるの?」

私は急いで首を横に振った。

「ないです。だからそれは違いますよ」

この間の会議室のことは関係ないだろう。それも、あんな微妙な初対面だったのに。

でもそんなことを知らない林さんはすこし照れ笑いした。

「いや、結構流れている噂だからつい信じちゃいました。成瀬さんのアシスタントってだけで注目度高いし、まさかの成瀬さんの指名って話題性抜群ですよね」

その言葉にどっぷりと気持ちが暗くなる。こんな噂のせいで、余計に注目されるのかと恨めしくなる。


ふとさっきの柳原さんの言葉を思い出した。

「そう言えば」

私の言葉に、松橋さんが反応する。

「どうしたの?」

「さっき、柳原さんにも同じようなことを言われたので」


それを聞いて松橋さんは眉根をよせた。大きくため息をつく。

「牧野さん、柳原君には気を付けてね」

「え?」

驚いて二人を見ると、林君は気まずそうに下を向いた。松橋さんは苦い顔で続ける。

「柳原君と成瀬君って、…はっきり言うと仲が良くないのよ。柳原くんの一方的なもので、たぶん成瀬君は何とも思っていないんだけどね」

それを聞いてはじめて、さっきの柳原さんの態度が理解できた気がする。


あの視線はどう見ても好意的ではなかった。だからなんとなく居心地が悪くて、いやな気持になったのだ。

「牧野さんに直接何かする事はないと思うけど。でも成瀬君には露骨に態度に出すから、牧野さんにも影響があるかも。気を付けてね」

「成瀬さんは気にしてないんで、牧野さんもそんな感じでいってください」

林さんも励ましてくれるが、気持ちは沈んだままだ。そんな事できるとは思えない。

前途多難。心の中で呟く。


その後仕事に戻って、いつの間にか終業時間になった。帰宅しようとしたら、人気のない廊下で声がかかる。

声をかけてきたのは、一人の女性社員で、名前も部署も知らない人だった。彼女から延々15分。成瀬さんに言いよるな、仕事の邪魔をするな…等と忠告される。こんなドラマみたいなことが実際にあると思わなかった。どちらかというと、驚きの方が強い。


私は今日一番大きなため息をついた。



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