否定では、ない
成瀬さんはしばらく、答えなかった。
私たちはお互いを見ていて、先に視線を逸らせたのは、成瀬さんだった。
眉を寄せて、苦い顔をした。
「利用してはいない…でも」
安心した、その後に続いた言葉に、今度は私が眉を寄せた。
「それに答えるのは、とても難しい」
その答えが完全な否定ではなかったことに、気持ちが冷える。
否定ではない。
それは、肯定と同じだから。
「今度の新部署ができる話は、以前からあって、そこの課長にはずっと選ばれたいと思っていた。元々やりたい仕事だったからね。だけど他にも、そのポストを狙っている人はたくさんいた。かなり厳しい審査になると思った」
そこで成瀬さんはため息をついた。
「実力なら誰にも負けない自信があった。だけど、俺には一つだけ足りないものがあった」
とても静かな声で、成瀬さんは淡々と話していく。
「足りないのは後輩の指導実績だった。部署のトップには、指導力が絶対に必要だからね」
昼間聞いた話と同じだ、心臓が大きく鳴る。
「吉田さんの事件以降、俺は人と仕事をすることを避けて、ずっと一人でやってきた。企画を盗まれたり、利用されるのは、もううんざりだった。だけど流石にこれ以上一人で仕事するわけにも行かない。そのポストにつくためにも、アシスタントをつけるように課長に言われた。ただつけるだけじゃなくて、少しでもうまくやるように言われた」
成瀬さんはそこで視線をあげた。私の目を見た。
「その代わり、誰かいい人がいたら、指名してもいいと言われた」
小さく息を吐いて、成瀬さんは視線を外した。
「俺には希望はなかった。だけど、偶然、君に会って」
とっさに顔を伏せた。成瀬さんに顔を見られないためだ。
その時の私の顔は、もうすでに泣きそうだったから。
「君に会ったのは偶然だ。だけど、前も言ったように、なんとなく君のことが忘れられなくて、君がいいと思ったのも、事実だ。嘘じゃない」
だけど、その後に続けられた言葉はとても事務的で、気持ちがさらに冷えるのを感じた。
「君は俺と二人で仕事した時も、自分をよく見せようと飾ったり、無駄に長引かせて一緒にいようとしなかった。大人しくて、素直だったし、こんな人なら一緒に仕事をしても、うまくできるかもしれないと思った」
成瀬さんは思い出したのか苦い顔をした。
「最初は期待していなかったよ。だから、アシスタントにして、君が辞めずに、何事もなく数ヶ月過ぎれば、それで十分だと思った。きっとそれだけで俺の評価は最低ラインを超えられる」
もう、その時には私は理解していた。
この人は、私を利用したのだと。
だけど、答えはもっと簡単だった。別にいい成績は求められていなかった。
今までのアシスタントはすぐに辞めてしまっていたから、もしかしたら、ただ会社に行くだけで、よかったのかもしれない。
確かに、一緒に働き出した頃の彼は、言葉通りとても素っ気なくて、仕事すらさせるつもりがなさそうだった。
この話を聞いたら、あの時の態度もとても納得ができた。
成瀬さんは、思い出したのか、眉を寄せた。
「だけど、実際の君は全然大人しくなくて、勝手に仕事に手を出すし、頑固で、言い出したら聞かないし、いつもずっと隣にいて…散々ペースを崩されて、おかげで全く予想どおりにはいかなかった」
成瀬さんの手が伏せた私の頭に載せられた。
「いつの間にか君と働くのが、楽しくなった」
私の周りで腕が動いて、そっと私は彼に包まれた。いつもより少しだけ、その手が遠慮がちな気がした。
「教えれば素直に吸収するし、こっちの希望に応えようと一生懸命で、教える事で君が成長すれば、嬉しくなった。これが教える喜びなのかと思ったよ」
私の頭にそっと手が触れて、彼の胸に引き寄せられた。
「君のことが好きだと言ったことも、嘘じゃないし、それは打算でもなんでもない。それは信じて欲しい」
抱きしめる腕に力がこもった。
「始まりは仕事の為だった事は認める。でも、それから先は、違う。俺は里保が好きで、大切にしたいと思った」
噛み締めるように、彼はもう一度口にした。
「里保のことが、大切なんだ」
だけど、私は何もいえなかった。
私を好きだと言っても、もし、それが本当だとしても、簡単には信じられない。
仕事の為に使われていたなんて、すぐには受け止められない。
一生懸命だった私の気持ちも、道具にされてしまったのかと思うと、辛い。
それに、偶然私と会って、都合が良さそうだったから選んだだけだった。
他に条件に合う人がいて、その人に先に出会っていたら、私は選ばれなかった。
私でなくてもよかった、ということだ。
私たちが出会ったタイミングが、彼にとって、絶妙だっただけだ。
だから、彼の私への気持ちも、本当ではないのかもしれない。
もしかしたら、もう、私の役目は終わって、そろそろ別れようと思っていた、とか。
「里保?」
上から声がかかった。見上げた先には、私を見る彼がいた。
こんな時だけど、改めてきれいな顔だなあと思う。
この人は最初は作られたような顔だったけれど、いつの間にか、たくさんの顔を見せてくれた。
怒った顔も、不機嫌な顔も、
だけど、その顔が優しく微笑むところも、時々意地悪そうになるところも、とてつもなく甘くなるところも見てきた。
どの顔もよく覚えているし、どんな彼も好きだ。
好きだけど、今の話をすぐに受け止めるのは、無理だった。
「私、成瀬さんのお役にたてましたか?」
「里保?」
ようやく出した声はかすれていたけれど、ちゃんと彼には届いたみたいだった。私は腕を伸ばして、彼の胸の中から体を離した。
「でも、課長になったってことは、うまくできたってことですよね。なら、よかったです」
「里保」
「せっかく選んでもらったんだから、いい仕事しないといけないですからね」
そのまま力なく笑った。それを見た成瀬さんの指が伸びて、そっと頬に触れた。
その時になってようやく、私は自分が泣いていることに気がついた。
「でも、それも、もう終わり…ですかね?」
私はその手をそっと止めると、彼から離れた。
「新しい部署に行くかは、考えさせてください。そもそも、もう私の役目は終わったわけだし、それでついていっても邪魔になるだけだから」
「里保、ちゃんと話を聞いて」
成瀬さんは私の肩を掴んだ。だけど、それを私は首を横にふることで拒絶した。
「ちょっと、今、冷静に話せないです」
首を振ったせいで、涙が顔から滑り落ちた。
涙だらけで、お化粧も取れて…こんな顔、とても成瀬さんには見せられない。
思わずそう考えてしまって、笑いが込み上げた。
こんなことを言われても、私は成瀬さんの前では綺麗でいたいと思ってしまう。
それでも、まだ、彼のことが好きだ。
悔しいけど、今も、とても。
だからこそ、こんなに辛い。
「里保」
成瀬さんが私を見る。何を言ったらいいのか、困ったような顔を見て、心が軋む。
「今日は、帰ります」
「どこに行くの?」
私は少し考えて、答えた。
「私の家に」
ずっと彼と一緒にいたから、なんとなくここが自分の家のように思っていた。だけど、それも、もう終わりかもしれない。
「こんな時間にダメだよ。今日はやめよう」
「でも、今日は一緒にいられないです」
「里保!」
諫めるような強い声がした後に、私はもう一度首を振った。
「今日は一人にさせてください」
私は彼から離れて、置いてあったバッグとコートを手にとった。
「わがままいってすみません。ひとりで帰れますので、心配しないでください」
そして体を翻すと、ドアに向かって走って家を出た。
そのまま走ってマンションを出て、何度も歩いた駅までの道を無意識に走る。
突然足元が揺らいで私は立ち止まる。
「痛いっ」
何が起きたのかわからなくて、痛む足を見たら、右足の靴のヒールが折れていた。信じられない思いで、私はそれを見た。
その靴は、成瀬さんと働き出してから買った靴だった。
高いブランドのその靴は、今までのものよりヒールが高く、そして値段も高かった。出費は痛いけれど気にならなかった。
いい靴を履くと背筋が伸びて、仕事を頑張ろうとスイッチが入るような気がした。
何よりも、ヒールの高い靴を履くと、その高さの分だけ、本当にわずかだけど、成瀬さんと目線が近くなった。
とても些細な事で、誰にもその違いなんてわからない。
だけど、その小さな違いが私には重要だった。
近づいた目線の分だけ、彼との距離が近くなった気がしたから。
それが、とても、とても嬉しかった。
「最悪だ…」
目の前に小さな公園が見えた。彼の家には何度も行っていて、彼の家から駅までの道はもうすっかり頭に入っているはずなのに。私はどこを間違えたのか、見たこともない公園の前に来ていた。
ヒールの折れた靴を持って、私は俯いた。
涙が出て止まらなかった。




