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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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吹っ切れた顔

吉田さんの件が終わって、私たちにも以前と同じような平和な日々が訪れた。

そんな日に、変わらず課長から仕事が降ってきた。

「ねえ、牧野さん。これやってもらっていい?」


この人が侮れない人だと言うことは、よくわかっている。

とても気軽に声をかけられた時ほど、ハードルが高い。その証拠に手にはそれなりの太さのファイルがある。

「会議の資料を作っといて欲しいんだけど。今度の決済会議で使うやつ」

「え、それ来週ですよね。1週間もないですけど…」

思わず眉を寄せる。しかも、あの会議はとても大きなもので、そこで使う資料なんてアシスタントが手を付けるレベルではない。課長はそんな私を思い切り笑い飛ばした。

「ああ、大丈夫、大丈夫。決済会議の中の小さな会で使うだけだから。牧野さんなら今週中にできちゃうよ」

そう言って、まだ引き受けたわけでもないのに、てきぱきと指示を出して

「じゃあ、お願いね」

たくさんの資料を押し付けてきた。


そして、私はこう言う時に、間違いなくそれを受け取ってしまう。

仕方ない。やるか。そう思って自分のデスクに戻りながら、仕事の時間配分を考えていると、課長が声をかけた。

「あ、そうだ。牧野さん」

「はい」

振り返ると、課長と視線があった。さっきまでの笑顔と変わって、ちょっと真剣な顔をしていた。

「その資料、牧野さん一人で作ってもらっていい?それで成瀬のチェックなしで出して欲しいんだよね」

「え?」

「後、成瀬に言うとあいつ絶対にチェックしちゃうから、あいつには言わないで」

何かを作るときは必ず、成瀬さんの目を通すようにしている。今まで誰かのチェックなしに出したことはない。

「大丈夫だよ。牧野さんならもう完璧にできちゃうから」

成瀬が見る時間もないし、俺が話すから大丈夫、そう、とても軽く言って課長は掌をひらひらと振った。



デスクに戻って、自分でその資料に目を通す。

「これって…」

今度新しくできる部署の説明の書類だった。噂では新しい部署ができるらしい事は聞いていたけど、実際にできることも、それが後少しの間にできるものだと言うことも知らなかった。

依頼された仕事は、その業務形態や販売エリアなどをまとめる紹介資料を作ることだった。課長がプレゼンするって言ってたけど

「これってかなり大事なんじゃないのかな」

かなりの機密情報で、そんなの私がやっていいのかな。そう思いながらも、言われた通り私は作業に入った。


結局その資料作りはそれなりに大変で、私は連日残業して、ついでに休日返上で出勤となった。成瀬さんに言えない、と言うのが実は一番難しくて、彼の目を盗んで作業するのは大変だった。

でもその甲斐あって、資料の出来は我ながらいい物で、課長も受け取って見て、自然に笑みを浮かべた程だった。


***


「え、成瀬さんも朝からいくんですか?」

それは決済会議の前日、急に上司に朝からその会議にいくと言われたのは、家で夕食を食べた後だった。

成瀬さんはため息をついて、それから肩を竦めた。

「まあね」

「柳原さんが辞退したからですか?」

あの事件があって、柳原さんはその会議に出るのを辞退した。そして結局、その役は成瀬さんに回ってきた。いろいろあったけれど、当初の予定に戻ったってことになる。

だけど、決済会議は午後からで、本来なら午後から行けばいい。午前は重役たちの会議があるだけのはずだ。

「まあ、それもあるし。他のこともあるし」

朝からいないとなると、明日は私も少しのんびり仕事できるかな、と思わず気が抜ける。それを見越したのか、上司から声がかかった。

「明日中にやって欲しいことは後で伝えるよ」

それを少し恨めしいと思ってしまったのは、仕方ないことだと思う。



***


だけど、やっぱり人が少ないからか、その日の仕事は少しゆとりがあった。ついゆっくりして、松橋さんとランチは外に行こうと約束する。

一人デスクワークをこなしていると、隣の椅子が引かれて、そこに人が座った。


「柳原さん」

柳原さんはよう、と気軽に言って成瀬さんの席に座った。

「お疲れ様です」

この間、とても衝撃的な告白を受けてから、まともに話したのは今日が初めてだ。思わず身構えてしまう。


どこを見ていいのかわからない私が、視線を泳がせていると

「そんなに身構えるなよ」

傷つくだろう、そう言って、柳原さんは苦い顔をした。ちょうど私の周りには人がいなかったから、私たちの会話を聞いている人はいなかった。

「この間は言い過ぎた」

「え?」

柳原さんはため息をついた。

「俺も、ちょっと焦っていたから。仕事であんなこともあったし、気持ちも荒れていたし」

それを言われて、少し気が抜ける。


つまり、あのことはその場の勢いとか、焦りや苛立ちが言わせたことで、実際は私に感情はなかったと言うことだろう。それなら、理解できる。

そう自分で解釈していると、なんとなくそれが伝わったのか、柳原さんは笑った。


「牧野さんを好きな気持ちは嘘ではないから、なかったことにするなよ」

その目は顔ほどには笑っていなくて、本気なのだと理解した。


「俺は誰にでも優しくするわけじゃないからな」


どう答えていいのかわからなくて、私は黙って俯いた。

「だけど、今回のこともだけど、成瀬の方が俺よりも上だっていうのはよくわかった。だから、相手が成瀬なら仕方ない、と思うよ」

視線を上げると穏やかな顔をした柳原さんと目があった。

「それに、うまくやってるみたいだし。今は俺の入る隙間とかないってこともわかったから」

大きく息を吐くと、柳原さんは私を見た。

「とりあえず、今は見守る。もし、君たちに大きな危機が訪れたら、その時は牧野さんを攫いにくる」

驚いた私に柳原さんは笑った。

「そう決めたから」

吹っ切れたのだろうか、とてもすっきりしたいい表情をしていた。


柳原さんは成瀬さんのデスクを見た。

「成瀬は?」

「会議です」

「朝から?」

「そうですけど…」

柳原さんは考え込むような顔をした。それを不審に思って見ていると、私を見て苦笑いした。

「ああ、じゃあ、成瀬に決まりなんだな」

「何がですか?」

「新部署ができるんだよ。今度、正確には今回の決済会議の中の会でそこのトップが選ばれるんだ」


そう言われてピンときた。この間作った資料のものだ。

「あの部署のことですか?」

今度は逆に柳原さんが驚いた顔をした。

「へえ、牧野さんも知ってるんだ」

「ええ、まあ」

細かなことは言えないから、誤魔化すように返事する。柳原さんは視線を外すと、少し遠くを見た。

「成瀬がそこの課長に選ばれるよ。多分、今日きまる」

「え?」


そんな話は知らなかった。そもそも成瀬さんから新部署の話を聞いたこともなかった。

「知らないの?俺と成瀬はずっとそこのポストを狙ってたんだよ」

柳原さんは私を見て苦笑いした。

「俺に足りないのは実績。成瀬は内部の評価。だから、俺はなんとしても今度の決済会議に出てアピールしたかったの」

隣から大きなため息が聞こえた。目を向けると柳原さんは目を細めてぼんやりと前を見ていた。


「ま、結局無理だったけど」


それを見たら、何だかとても切ない気持ちになった。


この人も一生懸命であったことは変わらなくて、きっとたくさん努力をしていたのだろう。ただ、それがうまく行かなかっただけで。

こんな風に話せるようになるまでは、彼なりにたくさんの時間が必要だったのだろう。


柳原さんは私を見た。

「成瀬は優秀だけど、別にこれで完全に負けたわけじゃないし。俺にもまだまだ機会はあるし、これで終わりってわけじゃないからな。もう少しここで頑張るよ」


気持ちが治ったのか、柳原さんはとても穏やかだった。多分、元々はこう言う人なんだろう。

「あの」

思わず私も声をかけてしまった。柳原さんは立ち上がろうとしていた体を椅子の上に戻した。

「この間言っていた、まだわからないけど、これから私が」

話している途中で、柳原さんの声がかぶさった。

「それはもう、いい」

「でも」

柳原さんは苦い顔をした。

「あくまで俺の予想だし…それになんだか最近のアイツを見ていると、俺の勘違いだと思う」

そう言って私を見た。

「あの後よく考えて、少し考えが変わった。だから、気にするな」

「変わったって」

「成瀬は変わったと思うよ。昔はもっと個人主義だったし、絶対に人の手伝いなんてしない。この間だって、昔のアイツなら人に自分の資料を渡すなんてしなかった」

そこで柳原さんは立ち上がった。

「君と付き合って変わった。君が変えたと思う」

そう言った柳原さんの顔が、不思議なほど真剣だった。

「だから、信じろ。自分と成瀬を信じろ」


見上げた先の視線は、私を気遣うものだった。

「俺はね、君が泣くところを見たくない。だから俺の考え過ぎだと思うことにする」

私が何か答える前に、柳原さんは手を伸ばして、私の頭の上で、その手を止めた。


少しだけ、苦しそうに言葉を飲み込んでから、口を開いた。

「さっきも言ったけど、君が泣いてたら、俺は必ず、君を成瀬から奪いにくるから」

そう言って、浮いたままの自分の手を私の肩に置いた。そして軽く、私の肩を叩いた。

「その時はためらわないよ」



そして、その翌日、柳原さんが言っていたことが本当になった。

会社に新しくできる部署の課長に、成瀬さんが選ばれたのだ。





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